皮膚を売った男/The Man Who Sold His Skin

展示され売買され落札されたビザ・タトゥーの男は、
どうやって
皮膚と自我を取り戻すのか

映画の紹介

難民となって祖国を追われた男が、恋人と会いたい一心で、気鋭の芸術家からの“メフィスト”的な申し出を受け入れる。それは大金とともに“移動の自由”を得る代わりに、背中の皮膚を売ること、すなわち芸術家の手によるタトゥーを彫ることでアート作品となることだった。難民や人権や格差といった難題を下敷きにし、さらに現代アートの巧妙な錬金術をも俎上にのせつつ、緻密な映像と飄逸なストーリー展開で魅せるユニークな作品。

皮膚を売った男/The Man Who Sold His Skin
制作:2020年 / チュニジア・フランス・ベルギー・スウェーデン・ドイツ・カタール・サウジアラビア
監督・脚本:カウテール・ベン・ハニア
キャスト:ヤヤ・マヘイニ ディア・リアン ケーン・デ・ボーウ モニカ・ベルッチ

映画の紹介

point 1 シリア難民であるということ

 物語の発端は、2011年のシリア。主人公のサム・アリは恋人のアビールにメロメロで、混みあう電車のなかで人目もはばからずプロポーズ。居合わせた乗客たちの祝福を受けながら愛のダンスを踊って絶好調である。ところが急転直下、サムは当局によって「反逆罪」で逮捕されてしまう。プロポーズのなかで「自由」「革命」という言葉を口走ってしまったせいだ。

 2011年といえば、今日まで続くシリア内戦が勃発した年だ。シリアは「世界最悪」と呼ばれるほどの抑圧的体制を30年近くも敷いてきたアサド政権下にあった。チュニジア革命の烈風を受けて、シリアでも各地でデモが行われ、治安部隊と抗議者が激しく衝突した。戦闘はどんどん激化し、ついには「政府軍」対「反政府軍」による本格的内戦に陥った。さらに内戦が長引くにつれ、大国の思惑がからむ「代理戦争」という形相がむき出しになっていった。いまではシリア内戦は、第二次世界大戦後「最悪の人道危機」とも言われている。

 内戦勃発以来、戦火や迫害を逃れて難民となったシリア人は1300万人以上とされる。その半数は国内の難民キャンプでの悲惨な暮らしに追いやられ、半数はトルコやレバノンなどの近隣国に逃れたが、やはりその多くは深刻な貧困状態にある。

 このようなシリアの現在進行中の歴史をふまえると、サム・アリはあまりにも情勢に疎い青年である。恋人との将来のことだけを夢見ている呑気なノンポリ青年なのだ。だからうっかり人目につく場所で「自由」を叫んで逮捕されてしまう。こんな程度の「うっかり」であっても当時のシリアでは命取りだった。反政府主義者と見なされれば、酷い拷問を受けたり秘密裏に処刑されたりする可能性もあった。

 幸いサムは、取り調べの担当官が親戚だったという幸運に恵まれ、お目こぼしをもらってまんまと逃亡する。さっそく恋人アビールの元へ向かうが、サムが投獄されているあいだにアビールの縁談が進んでしまっていたことがわかる。相手は、アビールをシリアから逃れさせるだけの財力と縁故をもつエリート外交官だ。

 あれほど相思相愛だった恋人が、なぜサムの出獄を待てなかったのかといえば、そんな見込みがないと判断したからだろう。それほどまでに当時のシリアでは反逆者と見なされた者の運命は苛酷だった。でもそれ以前に、そもそもアビールとサムには歴然とした階級格差があるのだ。サムの投獄事件がなかったとしても、平穏無事に結婚できたかどうかは疑わしい。

point 2 メフィストフェレスの誘い

 家族の支援でなんとかレバノンのベイルートに亡命したサムは、ヒヨコの養殖場で単純労働に就く。それだけでは食えないので、夜な夜なアートの展覧会に潜り込み、招待者用のパーティ料理を漁っている。だがサムの頭を占めているのは、そんな貧しい暮らしぶりをどうにかしたいということよりも、あいかわらずアビールのこと。人妻となりベルギーに住むアビールの写真をネットで探しては、未練たらたら眺め暮らす日々である。

 サムを演じるヤヤ・マヘイニはシリア出身で、弁護士をしながら俳優をめざす無名の新人。数奇な運命に翻弄ながらあまりそのことを深く自覚せず、ただひたすら一人の女性を愛し抜くロマンチストぶりが滑稽なほどの、この純情無垢な人物を“つくりすぎず”、表情豊かにチャーミングに演じている。

 展覧会を仕切るマネージャーのソラヤ(イタリアの至宝ことモニカ・ベルッチが演じている)は、サムがシリア難民であることを鋭く見抜き、追い払おうとする。ところがそのようすをみていたアーティストのジェフリーが、サムを食事に招き、とんでもない申し出をする。

 それは、サムの背中をタトゥー作品のために提供すること、それによってサム自身がアート作品となるということ、その見返りに大金とともにシェンゲン・ビザ(査証)を提供するという話だった。

 最初は「あんたは恵まれた側の人間か」と、ジェフリーに対して反発心を見せていたサムだが、シェンゲン・ビザが手に入ると聞いて申し出を受ける決心をする。ビザが手に入れば、ヨーロッパに行ける。人妻になっても愛おしい恋人に会えるからである。

 ジェフリーはこの申し出を「メフィストフェレスの契約」に喩えていた。ファウストが悪魔メフィストフェレスと交わした、現世の逸楽を与えてもらう代わりに死後の魂を売りわたすという契約のことである。サムはおそらくその「喩え」が意味することは何も理解していなかっただろう。ではジェフリーはどこまでの意味を込めて言っていたのか。

 ジェフリーが、大金と自由を与える見返りに求めたのはサムの背中の皮膚である。メフィストフェレスのように魂を要求したわけではない。けれども、サムが生きてある限りは、サムの存在価値は背中のタトゥー・アートによって勘定されていくことになる。実際にも映画が展開していくなかで、サムの背中は、作品として他者から他者の手に売買され所有されていく。サムが売ったのは皮膚だけなのに、その皮膚によってサムの人格も尊厳も存在も疎外されていくわけである。

 現代アートの「錬金術」を完全にマスターし手玉にとる術を知っているらしいジェフリーが、そのことを見通していなかったはずはない。サムへの申し出は、たんなる比喩ではなく、まさに「メフィストフェレスの誘い」だったわけである。濃ゆい顔のベルギーの俳優ケーン・デ・ボーウが、カリスマ的な雰囲気をもったメフィストフェレスにして「錬金術師」でもあるアーティスト・ジェフリーを怪演していた。

point 3 タトゥーとアートの搾取すれすれの関係

 この映画には元ネタがある。ベルギーのアーティストのヴィム・デルボアが2006年に発表した作品「Tim」である。映画と同じく、生きている人間の背中にタトゥーを入れ作品とした。作品は2年後にコレクターに15万ユーロで売却され、背中を提供したティム・シュタイナーはその3分の1を手にした。契約ではほかに、この「作品」は年に3回展示されなければならず、ティムの死後は皮膚を剥がして額装しコレクターの所有物とされるということが取り決めされているという。

 ヴィム・デルボアは人間にタトゥーをする前に、生きた豚にタトゥーを施した作品「Art Farm」を発表して物議を醸した。動物愛護の観点からベルギーで違法判決を受けると、中国に移住し作品をつくりつづけさらに非難を受けた。ほかにも、複雑な実験装置のような「糞便製造機」など、肉体的・生理的にギリギリ感のある作品を発表しつづける、確信犯的お騒がせアーティストであるようだ。

 監督のカウテール・ベン・ハニア(チュニジア出身の女性である)は2012年にルーブル美術館で「Tim」を実際に目にした。「その超越的で異常な姿」がずっと頭から離れなかったと語っている(パンフレットのインタビューより)。そうして一気呵成に書き上げた脚本は、ヴィム・デルボアにも送られた。デルボアは現代アートに関するアドバイスなどをしたほか、みずから望んで映画にも出演、涼しい顔で保険業者役をやってのけている。

 実際に皮膚を売った男ティムは、ベルギーのタトゥー・パーラーの元マネージャーで、自分からヴィム・デルボアにタトゥーのキャンバスになることを申し出たという。映画では、生きる術を奪われたサムが“搾取すれすれ”の取引に応じることで、アートと社会と経済のきわどい関係がスリリングに描かれていた。が、ヴィム・デルボアのタトゥー・アートには、そこまでの社会性も問題提起も込められていないようだ。

 私はたまたまアート関連の記事で知ったのだが、スペインのサンティアゴ・シエラというアーティストがこの映画の狙いに近いタトゥー・アートをやってのけているようだ。ギャラリーの壁面にキューバ人の青年たちをずらりと並べ、その背中に一本の線をつなげて彫り込むというパフォーマンスをしたのだ。もちろん青年たちはそれなりの報酬を得たらしいが、スペインはもともと植民地時代のキューバの宗主国であり、キューバの人々を搾取してきたという歴史がある。このパフォーマンスは、そういった歴史的・政治的な主張をたぶんに含んだものだったようだ。

 サンティアゴ・シエラはほかにも、ヴェネツィアで200人の有色人種の髪を金色に染めたり、カメラの前で10人の人に自慰行為をさせたり、社会的弱者を金で雇って無意味な行為をさせるアート・パフォーマンスを連打しているという。ヴィム・デルボア以上に人騒がせなアーティストらしい。

point 4 職人気質なシェンゲン・ビザのタトゥー

 ジェフリーがサムの背中に彫ったものは、シェンゲン・ビザである。シェンゲン・ビザは、短期の観光や出張などを目的に最長6ヵ月で90日、シェンゲン協定に加盟するすべての国への自由な移動が認められるもの。サムにとっては「自由」の許可証のようなものであり、もちろんサムが難民であるからこそ選ばれたモチーフである。

 当然のこと、ビザは偽造防止のため多色使いの精緻なデザインが施されている。ジェフリーはまるで腕のいい外科医のように淡々と、サムの背中に細密デザインのタトゥーを施していく。針を刺し、鮮やかな色のインクを挿していく。

 元ネタのヴィム・デルボアの「Tim」や「Art Farm」のタトゥーが、ポップアート的なアイコン使いやスタイルに終始しているように見えるのに対して、ジェフリーのタトゥーは超絶的に緻密で職人芸を凝らしたものである。見事だし、なんといってもアートとして、というか装飾的に、美しい。ほんとうにこのタトゥーを現代アートにして発表したアーティストがいたら、そうとうな高値がつくのではないかと思う。

 もちろん実際には、サムを演じるヤヤ・マヘイニの背中に施されたのはタトゥー・シールだった。貼るのに45分~2時間、剥がすのにも45分ほどかかっていたとインタビューで語っている。

point 5 イエス・キリスト=受難者のように?

 ジェフリーの手で背中にタトゥーを施されるサムは、深く首をうなだれ、まるで十字架に架けられたイエス・キリストのようだ。その表情は、他者によってされるがままになるしかない宿命を静かに受け入れようとしているかのよう。サムはただただ無力で無辜である。

 サムをイエスのように見立てるカットは、ベルギーの美術館に初めてサムが“展示”されたときにも繰り返される。記者たちの前でジェフリーは、首を深くうなだれて背中を見せているサムの両手首をもち、さらにその背中がよく見えるように腕を開かせてみせる。ジェフリーのケレン味たっぷりの顔が、サムの背中の上に朝日のように登るという構図になる。前代未聞のタトゥー・アートを、アーティストみずからことさら衝撃的に見せようとするのだ。

 もちろんサムは、ジェフリーとの契約により、念願のシェンゲン・ビザとともに法外なフィーを手にする。展覧会中は高級ホテルに泊まって贅沢な食事をとりながら、自分の身に起きた“幸運”をひととき満喫もする。けれどもサムが背中を売った見返りとして一番臨んでいたことは、恋人アビールと会うための自由を手に入れることだったのだ。せっかく自由の身となりながら、肝心のアビールとの関係はまったく進展しない。

さまざまな絵画が並ぶ展示室を通り抜け、作品展示会場に向かうサムの背中 公式ホームページより

 サムは傷心する。難民キャンプにいる家族たちへの思い、シリア難民の人権団体との葛藤と軋轢などの事件も重なり、次第に「展示品」でいつづけることに苦痛を覚え、神経を消耗させていく。サムとアビールとの関係を勘ぐったアビールの夫ジアッドが、サムの展覧会場で暴れて高額の美術品を破損するといった事件が起こったりもする。

 けれどもサムの傷心と消耗をよそに、サムの背中のタトゥーはアート市場を賑わせていく。スイスの個人コレクターのもとに多額の保険金をかけられ売却される(その保険会社の男を、元ネタのアーティスト、ヴィム・デルボアが済ました顔で演じている)。スイスのコレクターの豪邸では、サムはまるで亀の甲羅干しのような姿で集まった好事家たちにお披露目される。あまりにも深く頭をうなだれて、体を小さく丸めているせいで、背中以外は頭も四肢も見えない。そうやってサムの背中以外になんの関心ももたない人々の目にさらされる。もはやイエスの「受難」に例えられるような存在さえ剥奪され、ただの物品となっている。

 サムの物品化はなおも進み、数ヶ月後にはオークションに「出品」される。アビールを失ったサムは作品としての自分の運命の変転には、もはや無関心になってしまっている。あいかわらず背中をオークション会場の客たちにさらしながら、耳にはイヤホンを付け、自分の身に起こることを感知しないようにしている。が、500万ユーロで落札が決まると、ふらふらと観客のあいだに歩きながら、イヤホンを爆弾のスイッチに見せかけて会場を混乱に陥れる。ヨーロッパの人々が抱くシリアや中東の出身者に対する偏見を逆手にとった、驚くべき抗議行動である。

 皮肉なことに、サムは生きた人間アートとしてではなく、一人の罪人として拘束され逮捕される。このことが、サムを疎外しつづけた背中からの解放のきっかけとなる。

point 6 鏡と額縁とモニターの世界

 この映画は全編にわたって、額縁に入った絵画(タブロー)や、鏡や、パソコンやモニターなどの画面を効果的に使っている。それによって「もう一つの世界」や「もう一つの現実」を画面のなかに多重多層に表現する。

 絵画は、サムが展示される美術館の所蔵品として、またサムが滞在するホテルの壁にかけられた作品などとして印象的にあらわれる。そのなかにはキリスト教絵画のピエタ(十字架から降ろされたイエスを抱くマリアの図)もある。パンフレットに解説を寄せた美術評論家の小崎哲哉氏によると、ほかにもバンクシーなどの現代アートを含むさまざまな作品が引用されているらしい。

 絵画の歴史を読み解いたストイキツァの名著『絵画の自意識』によると、絵画というものはタブローとして自立していく前に、メタ絵画(絵画のなかに絵画が描かれる)の手法を最初期に発見し、そこから「世界の窓」としての絵画の役割が強く意識されていったという。カウテール・ベン・ハニア監督はおそらくそういった絵画史をたぶんに意識しながら、画面のなかに絵画を入れる「メタ絵画」的な方法を駆使したのではないかと思う。

 多用される鏡やモニターも、そのような意図で使われていた。鏡については映画の冒頭に登場するジェフリーが、真っ白な鏡だらけの部屋を通り抜けながら、いったいどれが実像でどれが虚像なのか判然としないかたちで登場するところでも明らかだ。サムが展示される美術館には、作品を覗き込んでいる人の後ろ姿が表示される不思議な鏡作品も置かれていた。マグリットの作品「複製禁止」をもどいたような作品で、夫とともに美術館を訪れたアビールがこの作品を覗き込むのだ。顔の見えない鏡のなかに、アビールが秘めてきた葛藤が映し出されているような秀逸なシーンだった。

アビールが覗くマグリットめいた作品 公式ホームページより

 サムがモニターを通して人妻となったアビールや、難民キャンプにいる家族と会話をするシーンでも、愛する人々との距離を超えたつながりをあらわすというよりは、サムの孤独感を強調するように演出されていたように思う(通話中の画面がしょっちゅう乱れ、フリーズする)。とくに、サムのことを気遣う家族とのモニター越しの通話中、地雷で足を失った母親の下半身が偶然映り込んでしまうシーンは、モニター=タブロー=窓の向こうの「真実」を知ることの難しさとともに、そこに隠されている「真実」の過酷さをも象徴していた。

 カウテール・ベン・ハニア監督のことはまったくよく知らないが、ジェフリーの彫るタトゥー・アートの美しさといい、画面のなかのアートや鏡やモニターの使い方、また全編にわたる色彩や光の美しさといい、相当なアートセンスの監督だと思う。エンタテインメントとしてのストーリー性はもちろん、アートとして堪能できる趣向が凝らされていることが、この映画の最大の見どころであり魅力である。

point 7 最後はユーモアに救われる ★ネタバレ注意

 もう一つ、この映画の魅力は、現代のアート界の「錬金術」を痛烈に描きながらも、そこに生きる人物たちをユーモアと愛情をもって描いているところにあると思う。とくに、サムに悪魔的な提案をもたらすジェフリーの描き方である。

 冒頭、皮膚に施されたタトゥーが額縁に入れられた状態でギャラリーに展示され、それを作者のジェフリーが悦に入った表情で眺めているシーンから始まる。つまり、サムの背中の皮膚だけが剥がされた状態になっているというショッキングなシーンから始まって、いったいサムに何が起こったのかが時系列に沿って語られていくのだ。

 あまり予備知識がないままこの映画を見たため、サムの身に起こることを予測しながら、このアーティストはサディスティックな人でなしなのだろうかとか、ひょっとしてかなりおぞましいシーンも出てくるのだろうかとか、かなりどきどきさせられた。が、そんな心配はいっさい無用だった。

 もちろんジェフリーはとんでもないエゴイストである。アートのためには、サムの人格や尊厳を平気で踏みにじる残酷さももっている。たとえば、暴飲暴食とストレスのせいか、展示中のサムの背中に大きなデキモノができてしまうというエピソードがある。ジェフリーは理不尽なまでに怒り、すぐさまサムを外科医のもとに送り込んで、モニカ・ベルッチ演じるエージェントのソラヤを、作品価値を維持するためのスキンケアを怠ったと叱りつけるのだ。このエピソードそのものや、対処しようとするジェフリーやソラヤの慌てぶりが、生きた皮膚アートであれば「さもありなん」と思わせるようなユーモアに満ちていて、大変おもしろい。

 なんといっても、オークション会場で爆弾騒ぎを起こしたサムが収監されたあと、サムを救い出し背中のタトゥー・アートという「牢獄」から解放したのもまたジェフリーなのである。なんとジェフリーはサムの口腔から「細胞」を摂取し、それを培養してサムの背中のタトゥー・アートの「模造品」をつくってしまうのだ。冒頭に出てきた額縁のなかの作品はじつはそれであったというオチになっていくわけである。

 どこまでもしたたかなジェフリー。どこまでもアート錬金術を徹底するジェフリー。こうしてアート界による搾取から解放されたサムは、自身の死を偽装することで(ISISに捕まり処刑される映像が世界に流される)、模造されたタトゥー・アートの永遠の価値を保証したうえで、愛するアビールとともに新しい人生を切り拓いていくことになる。完璧なまでに“三方よし”のハッピーエンドで終わっていくのである。

 メフィストフェレスであるジェフリーは、結局サムに、アビールとの愛を取り戻し平穏に暮らせるだけの自由と大金を与えたことになるわけだ。なんというおしゃれな皮肉だろう。そしてこのなんとも洒落たユーモアに、サムの運命をハラハラ見守ってきた観客もまた、ホッと救われるのである。

私ごとですが

 監督・脚本のカウテール・ベン・ハニアは1977年生まれ、チュニジア出身の女性です。2013年に撮ったドキュメンタリー作品「Le Challat de Tunis」が話題となり、2017年のカンヌ映画祭でプレミアを飾った「Beauty and the Dogs」で世界的に成功を収めた監督とのこと。

 体から剥がされ額縁に入った皮膚とタトゥー・アートという不穏な映像に始まりながら、自由の身となり陽光まばゆい中東の「どこか」で人生を再出発しつつあるサムの映像で終わる。そのあいだに、シリア難民が置かれている過酷な状況とともにアート界の驚くべき錬金術のようすが盛り込まれていくのですが、見る側にも開放感をもたらしてくれるストーリー展開は、ニヤリとしたくなるような捻りが効いて、すがすがしささえ覚えます。「皮膚をアートのために売る」というショッキングなテーマ自体も、緻密な映像の構築美や色彩美によって、ビジュアル・イメージを堪能できる映像作品に昇華されていました。

 映画のパンフレットにある監督インタビューの中に、「私にとって映画をつくることは、楽譜を書くことに似ている」という言葉がありました。主人公の置かれている状況や感情変化に合わせて、それぞれの感情を輝かせるためのシーン上の光や装飾、服装、動き、台詞、音楽を組み立てていったのだ、ということです。

 主人公のサムはあまり教養があるわけではなく、自分が置かれている状況を言語化する力ももっていません。難民としての過酷な宿命よりも、恋人との別れに胸を痛めているような青年です。そんなサムの心境がアート作品となることで変化していくようすが、映画に引用された多様なアートや鏡やモニターといった「もうひとつの窓」の表現もあいまって、見事なまでに力強く印象深く描写されていく、まさに「映画的な映画」であり、「アート的なアート」と言えるのではないかと思いました。