アフターサン/after sun

父の記録と娘の追憶が紡ぎ出す、
「痛ましさ」と「いたたまれなさ」の軌跡

映画の紹介

故あって離ればなれで暮らす父と娘が、二人きりで過ごす夏のバカンス。その数日間を記録したホームビデオの映像を、大人になった娘が再生していくと、当時は気づかなかった父の痛ましい秘密が少しずつ浮き彫りになっていく。親密で幸せだったはずの時間が、日焼け跡のようにひりひりする「いたたまれなさ」に転じていく。いまこそ父の面影を全身で抱きしめようとする娘の思いが、苦しいほどに突き刺さる。本作が長編初監督作品というシャーロット・ウェルズ監督の、繊細でしたたかなストーリーテリングと映像表現を堪能するために、二度見必須の映画。

アフターサン/after sun
2022年 イギリス・アメリカ
脚本・監督:シャーロット・ウェルズ
出演:ポール・メスカル、フランキー・コリオ、セリア・ロールソン・ホール

映画の見どころ

point 1 記録と記憶で再生される父娘の旅

 ふだんは別々に暮らしている11歳の娘ソフィと若い父親カラムが、トルコのリゾート地で夏のバカンスを楽しむ。ソフィは、母親とその新しいパートナーとともにスコットランドにいて、カラムはスコットランドから離れて暮らしている。父娘は滅多に会えない寂しさを互いに癒すように、二人きりで数日間の親密な時間を分かち合う。

 映画前半は、父娘が体験するごくありきたりな旅のエピソードやリゾート地での出来事が淡々と描かれていく。あまりに淡々としているので、ついついこちらもバカンス中のようなダルな気分になってくる。油断すると睡魔が忍び寄ってくる。けれどもこの映画には、観る側に「注意深さ」を促す仕掛けが巧妙に施されているので、なんとしても睡魔とは闘いつづけなければならない。

 実はこの映画は、大人になったソフィが、ビデオテープに残された二人の旅の映像を見返しているというメタ構造になっているのだ。最初に映し出されるのは、空港のゲートで手を振りながら去って行くソフィを捉えた、手振れだらけの映像だ。バカンスを終えて、また別々の暮らしに戻る娘を、父が最後に捉えた映像である。大人ソフィはそこからビデオテープを巻き戻し、旅のはじめから映像をたどり直す。つまりこの映画が描く父と娘のひと夏のエピソードはすべて、大人ソフィの記憶であり追憶であるということだ。

 しかもその追憶は、何か不穏な出来事につながっていくらしいことも早々に知らされる。ビデオテープを観ている大人ソフィの映像が挿入されると、その表情は凍り付いてしまったかのように生気がなく暗いのだ。楽しかったひと夏の思い出に浸っている風情とはほど遠い。それに気づいた瞬間、こちらのダルな気分は完全に吹っ飛んでしまう。気をつけろ、注意深くなれ、この先とんでもないことが起こるぞというアラームが頭の中で鳴り響くのだ。

point 2 繊細で微妙な父娘の距離感

 バカンス中の父娘はつねに一緒に行動している。食事をするのも、海で泳ぐのも、プールサイドで日光浴するのも、気楽なレクレーションに参加するのも、つねに一緒。その様子をビデオカメラでお互いに「撮り合いっこ」する。

 旅行当時のカラムは30歳、まもなく誕生日を迎えて31歳になろうとしている。ツアー客からソフィの兄に間違われるほど、風貌にはどこか青年くささが残る。演じるポール・メスカルは、ガタイは大きいがいつも身の置き所に困っているような、一生懸命「頼もしさ」を演じていることがバレバレな父親を繊細に演じ切って、本作でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。

 娘のソフィは、オーディションで選ばれ本作が初出演作というフランキー・コリオ。父にはめっぱい甘えたいのに、子ども扱いされると憤慨する程度には大人の入り口に差し掛かっている、難しい年ごろの娘をキュートに演じている。

 青年くさいカラムとちょっぴり背伸びしたがるソフィの姿は、まるでウブな恋人同士のようだ。仲睦まじくスキンシップだってする。父は娘の背中に丁寧に日焼け止めを塗ってやり、日焼けした肌にはアフターサンローションをパッティングしてやる(タイトルの「アフターサン」の原義はこれらしい)。観光名所の泥風呂で、お互いの身体に泥を塗りたくったりもする。

 ソフィはそろそろ父親の男性性に生理的嫌悪感を覚え始めたりする年頃なのだけど、たまにしか会えない父親は、ソフィにとってまさに恋人みたいな存在なのだろう。

 しかも二人は、ホテルの予約の手違いで、ツインベッドではなく、シングルベッドしかない部屋で過ごしている。ただしカルムは、ベッドはソフィに譲り、自分は小さなソファで窮屈そうに寝る。スキンシップは平気なのに、決して一つベッドで寝ようとはしない。この微妙な距離感がなんとも言えず繊細で、切なくて、香ばしい。

 年頃の娘との距離感にものすごく気をつかっているくせに、ついつい臨界距離を超えてベタベタとスキンシップしてしまう、カルムの父親としての未熟さが愛おしくもなってくる。やがて映画が進むと、だんだんそれが日焼け跡のようにヒリヒリしてくる。

兄妹に間違えられてしまうほど、どこかウブな雰囲気の父と娘

point 3 崖っぷちに立つ父

 カルムは若くて未熟であるだけではなく、どこか危なっかしい。そもそも海辺のバカンスに来たというのに、手首に無粋なギプスをつけている。そのギプスを早々にホテルのバスルームで切り裂いてはずしてしまうのだが、小さなハサミをつかって石膏を切り裂こうとする様子がただならない。イライラがつのり、腕を切り裂いてしまうのではないかと思うほど、なにやら鬼気迫る様子なのだ。

 ほかにも、ソフィが熟睡している真夜中にベランダに出てこっそりタバコ(ひょっとしたらクスリか?)を吸っていたり、唐突に道を横切ってバスにクラクションを鳴らされたり、歯磨きしながら鏡に向かってやにわに唾を吐きかけたり、ついにはバルコニーの手すりの上に立ち上がって今にも飛び降りそうな気配を見せたりする。

 ビデオカメラをかまえるソフィから、「11歳のときどんな30歳になると思っていた?」とインタビューされると、困ったような表情を見せ、背中を見せてカメラを止めてほしいと言う。初対面のスキューバダイビングのインストラクターに対して「30歳まで生きるとは思わなかった。40歳まで生きるとは思えない」などと語るシーンもある。

 娘の前では包容力のある父親を演じているが、どうやらカルムはぎりぎりの崖っぷちにいるらしいのだ。その原因がなんなのか、いったい何を抱えているのかは最後まで明かされない。大人ソフィは記憶をたどりながら次第にそのことに気づいていくのだが、父の胸の奥に何があったのかはついぞ明かされない。

 ひとつだけわかるのは、カルムは経済的な苦境にあるらしいということだ。そもそも二人が止まっているホテルは、ロビーも部屋もサービスもごく質素で簡素な安ホテル、同じツアー客とともに楽しむアトラクションやイベントも、俗っぽくて格別感がない。きっと格安ツアーなのだ。それでもこれが、カルムがソフィのために用意してやれる精一杯のことなのだろう。レストランで悪戯半分に無銭飲食をするのも、ソフィにとっては楽しい冒険だが、カルムにとっては切実なのだ。

 カルムがバルコニーやロビーで太極拳をするシーンがある(ソフィはそれを「ニンジャムーブ」と呼ぶ)。太極拳とメディテーションのペーパーバックも持ち歩いている。それは、何かに行き詰まり、追い詰められているカルムにとっての、すがりつく藁のようなものなのかもしれない。

point 4 ソフィの性と目覚め

 バカンス中は父とばかり過ごしているソフィだが、リゾート地では同い歳くらいの少年や、歳上の青年たちとの出会いもある。カルムはそのことをとがめたりはしないが、突然ソフィに護身術を伝授したりして、不器用に気遣っているようだ。一方でソフィは少々内向的で人見知りであまり社交的ではない少女らしく、カラムがそのことを気遣っている様子もうかがえる。

 ソフィのほうには、11歳の少女なりの「性への関心」もあるのだが、もちろんそんなことは男親のカルムには知るよしもない。少年とバイクゲームで競い合ううちに肌が触れあってしまったり、歳上の男女がプールで戯れながら水中で濃密なキスを交す様子に目を奪われたりと、「父には言えない」経験をこっそり重ねていく。

 じつは大人になったソフィには同性のパートナーがいる。そのことは映画前半には明かされる。だから、甘酸っぱい経験を重ねていく11歳のソフィに同性愛者としての自覚がすでに芽生えていたのかどうかがどうしても気になるのだが、そのこともあまりはっきりとは描かれない。その代わり、こんな印象的なシーンが挿入される。

 カルムとの「すれ違い」が起こった夜(くわしくは後述する)、ソフィが、別の客室で男性同士が抱き合いキスをしているのを偶然覗き見してしまうのだ。まさにソフィの性指向を暗示するようなシーンだが、その後ソフィは、バイクゲームの少年に誘われるままに誰もいないプールに行き、キスを交す。あたかも男たちのラブシーンに刺激を受けて、「さっさと経験を済まそう」とするかのように。

 ソフィの性は目覚めつつあるけれど、性指向についてはまだまだ未分化らしいのだ。もちろんこれらの一連のシーンは、あくまで大人ソフィの追憶として描写されていることなので、自らの「性の自覚」をいままさに記憶のなかで探りつつあるということを表しているのかもしれない。

point 5 カルムは同性愛者なのか

 「アフターサン」の紹介記事や考察ブログには、カルムもまた同性愛者なのではないか、映画のなかのいくつかのシーン(たとえばスキューバダイビングのインストラクターとのやりとりなど)はそのことを暗示しているのではないかと指摘しているものがある。

 私も映画初見のときにそんな「読み」をしたのだが、ウェルズ監督のインタビューを見ると、そういう解釈があることについて聞かれて、やんわりとだが否定している。監督が否定している以上、そこにこだわる必要はない。にもかかわらず、二度目に鑑賞してみると、どうもカルムは同性愛者であるとしたほうが、この映画の陰影がさらに濃くなるのではないか、味わいが増すのではないか、というようなことをやっぱり考えるようになった。

 同性愛者であることが、カルムの行き詰まりの大きな原因だったのではないか。カルムは、まだまだ同性愛者への偏見や差別が酷かった時代感覚のなかで、社会的成功も精神的安寧を得ることもできず、その苦しみを誰とも分かちあうこともできずにいたのではないか。

 大人ソフィは、20年前の父とのバカンスを追憶するなかで、自らの甘酸っぱい性の目覚めや、まだ未分化だった性指向を思い出し、そのことによって次第に父の性の秘密と苦悩に気づいていった。ホテルで激しくキスを交す男性同士のシーンは、実際に少女ソフィが目撃したものというよりも、大人ソフィが気づいた父の秘密に関するヴィジョンだった。そんな「読み」もありうるのではないか(監督は認めてないが)。

 ソフィが同性愛者であるからこそ、そのようなことに気づきうるのだし、そのような設定も説得力を持つのではないか。またそう考えたほうが、父が一人で抱えていた苦悩の痛ましさにいまこそ寄り添いたい、父を想えば募るいたたまれなさとしっかり向き合いたいと思う大人ソフィの心情が、ますます突き刺さってくるように思うのだ。

point 6 カラオケ大会のいたたまれなさ

 ツアー客たちが集うカラオケ大会で、ささやかな「事件」が起こる。ソフィが自分たちもステージに出て歌おうとカルムを誘うのだが、カルムは頑として応じない。思慮深いソフィがカラオケ好きな少女とは思えない。おそらく勇気を振り絞って、父との特別な思い出をつくりたかったのだろう。けれどもカルムはソフィの「願い」を拒絶する。

 ソフィは父を置いて一人でステージに立ち、はにかみながら歌う。カラムが好きな曲だというR.E.M.の“Losing My Religion”。直訳すれば「信仰心を失う」だが、「絶望する」といった意味が込められているらしい。愛する者への届かない思いを込めた、90年代の大ヒット曲だ。

 カラムにとって、この歌はあまりにも心情に突き刺さってしまうのだろう。愛娘の誘いを頑なに拒絶せざるをえないほどに(ちなみに、カラムは同性愛者ではないかと推理している考察ブログのなかに、R.E.M.のリードボーカル、マイケル・スタンプはゲイであり、それゆえにカラムはこの歌を人前で歌えなかったのではないかと推理しているものもあった)。

 このカラオケのシーンはカルムの「痛ましさ」だけではなく、カルムが抱く「いたたまれなさ」もあぶり出している。ソフィはひどい音痴なのだ。それまで盛り上がっていた観客たちをドン引きさせてしまうくらい。カラムはソフィの音痴をよく知っていて、デュエットを拒否したのには、人前で歌いたがるソフィを牽制したかったということもあったのかもしれない。

 歌い終わって、顔を紅潮させながらもどってきたソフィに対して、カルムは「歌のレッスンに通うのもいい」などと嫌みを言ってしまう。それに対してソフィは「そんなお金ないくせに」と言い返してしまう。それまで、カルムの懐具合をひそかに慮る言動をみせていたソフィが、いきなり売り言葉に買い言葉を返すように、刃を突き出してしまうのだ。

point 7 カルムが目指した暗い海 ★ネタバレ

 カラオケ大会での諍いのあと、ソフィはカラムと別行動をとってしまう。すっかり顔見知りとなった歳上の男女たちの大はしゃぎの飲み会におずおずと参加する(飲めないソフィはあくまで傍観者だ)。ようやく戻ってくると部屋には鍵がかかっている。ソフィは仕方なくホテル内をさまよい、男同士のラブシーンを目撃し、バイクゲームの少年とプールサイドでキスをするという一連の「冒険」を体験するわけである。

 一方のカラムは、とんでもない行動に走ってしまう。たった一人、切羽詰まったようすで砂浜をずんずんと歩き、そのままつんのめるように進んで、暗い海に入っていってしまうのだ。やがて画面は暗い海と、白い波頭と、寄せては返す波の轟音ばかり。いったい何が起こったのか。カラムはどうなったのか。それまで崖っぷちぎりぎりにとどまっていたカラムは、とうとう「その先」を目指してしまったのか。明らかにカラムの最期を予感させる、ショッキングなシーンである。

 と思いきや、次にはカラムは無事にホテルの部屋に戻っている。けれどもその表情は見えない。素っ裸で背中を向けてベッドに腰掛け、肩をふるわせ、慟哭している。傍らには、ソフィへの愛を走り書きしたメモだかカードだかが置かれている。

 結局何も明らかにされないし、何も説明されない。でもカラムの内奥に、決壊寸前の、自己破壊の暗い衝動が巣食っていることが見てとれる。もちろん、これらの出来事はすべて、大人ソフィの追憶が描き出していることだ。そもそも実際にあった出来事なのかどうかもわからない。けれども、大人ソフィはその未知なる記憶に対して、いままさに確信をもちつつあるということなのだ。そのことは、その後に続くシーンでも想像がつく。

 行き場を失いロビーでうたた寝をしていたソフィが、ホテルマンに助けられてようやく部屋に戻ってくると、真っ暗な部屋のなかで、裸のカラムが寝息をたてている。いつもはソフィに譲ってくれるベッドを占領している。ソフィは部屋を閉め出された恨みつらみを持ち出すことなく、何も言わずにカラムにブランケットをかけてやり、自分はソファのほうで休む。

 まるでこの一夜でソフィはすっかり大人になってしまったかのよう、すっかり得心してしまったかのようだ。カルムの秘密や苦しみの何もかもを察知したわけではないだろう。ただ、娘にも隠し通せない不安定さを抱えている父のことを、ありのまま受けとめようというような、なんらかの決意をしたのではないか。そんなふうに、大人ソフィがこの一夜のことを、改めて自らに刻印しようとしているということなのだろう。

point 8 トルコ絨毯と幸せの黄色いバンド

 映画終盤にむけて少しずつカルムの痛ましさ、いたたまれない状況が積み重なっていくなか、二人の「未来」が象徴されているかのような、印象的なアイテムも出てくる。

 ひとつは、街中の店でソフィが気に入り、カラムが悩んだ末に購入を決めるトルコ絨毯だ。トルコ絨毯はペルシャ絨毯同様、熟練の職人が手織りでつくりあげる高級品である。その織り柄には伝統的な物語や意味が込められていて、一点一点が違うデザインであるため、気に入ったものが見つかればまさに「一期一会の出会い」となる、というふうに、ペルシャ絨毯の愛好者から聞いたことがある。ソフィが一枚のトルコ絨毯に魅入られたのも、そういう特別な出会いなのだ。とはいえ、経済的苦境をかかえているカラムにとってこれは、相当な覚悟の買い物だったはずだ。きっとカラムなりに、「何かソフィのために残してやれるもの」を熟慮し、決断したのだろう。

 大人ソフィがパートナーの女性と眠るベッドルームには、このトルコ絨毯が敷かれている。伝統的な物語が織り込まれているトルコ絨毯は、カラムという一人の人間の生き様や物語を象徴しているようにも思える。それを、未来のソフィが読み解いてくれることをカラムが望んでいたのかどうかはわからないが、大人ソフィは確かにそれをいま読み解きつつある。そんな二人の関係が、このトルコ絨毯にもあらわされているようにも思う。

 もうひとつは、ソフィが手に入れた、リゾート地のバーや施設を無料で使えるメンバーだけが持つ黄色いアームバンドだ。ソフィはそれを、カラムと諍いのあった夜、一人でバーのカウンターにいるときに、歳上の女性から譲られる。「自分は明日帰ってしまうから」と、自分の手首からはずしてソフィの手首に付けてくれたのだ。このシーンは、ソフィの性指向の符牒になっているような気もするのだが、それよりなにより、父の経済的苦境について嫌みを言い放ってしまったソフィにとって、この黄色いバンドはまさに「幸せ」を掴むバンド、これでもう父に負担をかけずにすむという「救い」のバンドでもあったろう。

point 9 レイブシーンが意味するもの

 この映画は、少女ソフィのひと夏の経験が、まんま大人ソフィの追憶になっているというメタ構造を、伏線回収的なストーリー展開によって収支合わせするのではなく、驚くほど手の込んだ映像によって表現する。

 父娘が撮り合いっこした手触れ映像が随所に挿入されていることもそのひとつだが、たとえばホテルの寝室にいるソフィとバスルームにいるカラムが画面分割のように対置されたり、窓をはさんで室内のソフィと室外のカラムが対比されたり、二人の関係性が鏡やテレビのブラウン管に写りこんだ映像で表現されたりというふうに、画面そのものがメタ構造を含んでいるようなシーンが、手を変え品を変え展開されるのだ。

 もっとも大胆な映像表現がみられるのが、何度か唐突に挿入されるレイブのシーンである。ストロボライトが激しく点滅する暗闇のなかで、大勢の男女が大音量の音楽に合わせて踊り狂っている。あまりにもストロボ効果が強烈すぎて、最初はそれがいったい何をあらわすシーンなのかがなかなか見定めにくいのだが、目を凝らしていると、そのなかに一心不乱に踊りまくるカラムの姿が見いだせる。さらには、そんなカラムを遠くから見つめる大人ソフィの姿も認められる。

 まるでサブリミナルのような、視覚的認知限界のギリギリを攻め込んでくるような、挑戦的な表現手法だが、それだけに、その意図がつかめたときに受ける衝撃はとてつもない。このレイブシーンは、大人ソフィが父との一夏のバカンスの映像を振り返り、追憶しながら、父が抱えていた苦悩や闇に近づいていく道程をあらわしているのはもちろんだが、きっとそれだけではないだろう。

 その道程には目をふさぎ耳を覆いたくなるほどの残酷な事態が待っているかもしれず、ソフィ自身が混乱に巻き込まれ、感情の渦のなかで自分を見失ってしまう恐れだってあるかもしれない、ということまでを表現しているのではないだろうか。

point 10 「アンダー・プレッシャー」で抱きしめて ★ネタバレ

 不穏な一夜の「嵐」が過ぎ、父娘はすっかり和解し、何事もなかったかのような様子で、近郊の観光地へのミニツアーに出かける。その日はカラムの31歳の誕生日。ソフィはツアー客たちにこっそり頼んで、サプライズでカラムにバースデイソングの合唱をプレゼントする。驚き、とまどうカラム。衝動的に暗い海に入ってしまうカラムの心情を思うと、ここもまた、いたたまれなさが募るシーンだ。しかも、あいかわらずソフィは音痴なのだ。

 そのあと、観光名所の泥風呂でカラムとソフィはお互いの体に泥を塗りたくる。このとき、カラムの肩に赤い擦り傷ができていることが、昨夜の暗い海での出来事を暗示しているのだが、ソフィがあえて気にとめる様子はない。

 夜には二人そろってダンスイベントに参加する。今度はソフィのほうが気後れし、カラムのほうが積極的だ。ここで鳴り響くのが、80年代の大ヒット曲、クイーンとデヴィッド・ボウイの「アンダー・プレッシャー」。カラムはすっかりご機嫌になって踊り狂う。

 80年代が青春真っ盛りだった私は、この曲が流れるだけでキュンキュン胸が疼いてしまう。そこへもってきて、このシーンに、例のレイブシーンが重なってくるのだ。なんと憎い演出! 

 ストロボライトの点滅のなかで、やはりカラムが踊り狂っている。大人ソフィが人混みを分けて、少しずつカラムのほうに近づいていく。少女ソフィもまた勇気を出してステージに出てカラムとともにダンスを踊り始める。だんだん二人の距離が近づき、ついに子供ソフィがカラムの懐に顔をうずめてハグをする。その瞬間、「アンダー・プレッシャー」がクライマックスに達し、「愛」を叫ぶフレディとボウイの声の中で、大人ソフィが、カラムを全身で抱きしめる。

 それまではお互いを慮りつつ微妙な距離感を保ってきた父と娘が、完全にひとつとなる。それと同時に、それまで離れ離れになっていた、大人ソフィのヴィジョンのなかの父と娘もひとつとなる。そうして、直接的にはリンクしていなかった大人ソフィと子どもソフィの時空が、この怒涛のクライマックスの中でぴったりと重なっていく。

 周りの観客の鼻水をすする音がどんどん激しくなり、嗚咽が漏れそうなほどの感情が突き上げてくる。これでもう完全にやられた。シャーロット・ウェルズ監督の術中にまんまと嵌ってしまった。

一夜の「嵐」のあと、関係性が変化した父娘のラストダンス

point 11 そして、父はどこへ ★ネタバレ

 二人きりのバカンスが終わりを迎える。冒頭と同じように、空港ゲートで手を振りながら去っていく、手振れのソフィの映像が流れる。ソフィが去ると画面は180度回転し、撮影を終えてビデオカメラをしまうカラムをとらえる。その表情からは、光が完全に失われている。カラムはそのままくるりと背中を向け、奥に見えている扉のほうへ歩いていく。

 扉の隙間から、あのストロボライトが点滅する暗闇が覗いている。カラムは吸い込まれるようにその暗闇のなかに消えていく。あっけないラスト。けれども、このラストが、父娘のひと夏のバカンスの終わりだけをあらわしているわけではないことは明白だ。これは父娘の永遠の別れなのだ。

 それから20年後、ソフィは成長し、同性の恋人と暮らすアパートで、父の残した映像を見返しているわけだが、では、父はどうなったのか。カラムの人生はその後どうなったのか。そのことについては、やはり説明もされないし、描かれもしない。にもかかわらず、観る側は、疑いようもない確信へと導かれている。

 カラムはすでにこの世にいない。しかも、このバカンスの直後に、みずから二度と光を見ることのない闇の奥へと去っていってしまった。そんな確信である。ああ、なんという痛ましさ。なんといういたたまれなさ。そして、なんという映像表現。

 見終わったあとも父娘それぞれの切なさを想い、胸がしくしくするような余韻の日々が続く。それと同時に、驚くべき才能にあふれた映像作家に出会えたという喜びも、じわじわとあふれてくる。この映画を知らなかった自分にはもう戻れない、戻りたくないというほどの、強烈な日焼け跡を残してくれる作品なのである。

私ごとですが

 正直なことを言うと、初見のときは、前半で睡魔の誘惑に負けそうになりました。夏の太陽、青い海、リゾート地ののんびりした空気感、仲睦まじい父と娘の会話・・・・・・なにもかもが、ありふれていて退屈でした。それが、この映画の構造や仕掛けがわかってくるにつれて、スクリーンから目が離せなくなるのです。

 ラストのダンスシーンでは、嗚咽が漏れ溢れそうなくらいに感情が揺さぶられました。前半の退屈に思えたシーンのなかに、すでにさまざまな暗示や象徴がひそんでいたことに気づき、映画が終わるなりもう一度見ようと思わずにいられませんでした。二度目に見たときには、冒頭から涙がこみ上げてきて困りました。

 勝手な推測ですが、この映画の仕掛けを、初見ですべて掴みきってしまえるような人は、よほどの見巧者を除いてほとんどいないのではないでしょうか。きっと私と同じように、中盤以降にようやくいろんなことに気が付き、ラストシーンですっかり心を掴まれ、自分がうっかり見落としてしまったものが気になって、また映画館に足を運んだというような人が、少なくないと思います。

 そもそもどんな映画だって、たった一度きりの鑑賞で作り手の意図をあますことなく汲みつくすなんてできない話です。だから、「これぞ」という作品に出合った時にはできれば二度以上、叶うことなら繰り返し気の済むまで鑑賞するべきだと思います(理想論です)。とはいえ、最初から観客に二度三度と観ることを強いるような映画(たとえばノーラン監督の「テネット」のように)としょっちゅう出会いたいとも思いません。さすがにそれは御免です。

 「アフターサン」は、初見だけではなかなか鑑賞を成就しきれない映画です。もちろん、何度も観ることを強要してくるような強面の映画というわけでもありません。これはこれでえらくやっかいな映画です。こんなにも受け手の察知力や解釈力を試す映画でいいのだろうか、これは監督の「若気の至り」なのではないか、というような気もしないではありません。でも、それも含めて、こんな手の込んだ術策を長編第一作でやってのけるシャーロット・ウェルズ監督は、本当に才能あふれる気鋭の映像作家だと思います。

 じつはこの作品は、ウェルズ監督の体験に根差してつくられたもので、監督自身、ティーンエイジャーのときに父親を亡くしているのだそうです(自殺なのかどうかは語られていないようです)。この事実を知ると、ウェルズ監督の仕掛けはたんなるケレンではなく、父親の面影をどんなふうに捉えていけばいいのか、その死とどんなふうに向き合えばいいのかということを、何度も何度も自問自答し、それによって独自に発見し彫琢していった、唯一無二の表現手法だったのかもしれない、という気もしてきます。だからこそ、これほどまでに父や娘の「痛ましさ」や「いたたまれなさ」が身につまされる映画になったのではないかと思うのです。

 もしそうだとしたら、この方法はそうそう何度も使えるものではないかもしれません。ウェルズ監督にとってもっともセンシティブなテーマを追うことによってこそ導き出した方法なのかもしれないのです。

 果たしてこれからウェルズ監督は、どんな作品を生み出していくのか。とくに、自伝的なモチーフから離れたときに、いったいどんな表現手法を見いだしていくのか。これからの方向性がとても気になります。ずっと気にしていきたい監督です。