アンモナイトの目覚め/Ammonite

ドラマ

実在する化石発掘家の女性の生き様に、
想像力を駆使してレズ・ロマンスを加えた異色作

映画の紹介

19世紀のイギリスで化石発掘家として数々の発見を成し遂げたメアリー・アニングの生き様を、史実とフィクションを混ぜながら描く異色作。年齢差と階級差を超えて激しい恋に落ちる女性同士の濃密な関係と葛藤を体当たりで演じる、ケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンの演技格闘技も見どころ。

原題:Ammonite
制作:2020年 イギリス
脚本・監督:フランシス・リー
キャスト:ケイト・ウィンスレット、シアーシャ・ローナン

映画の見どころ

point 1 メアリー・アニングって何者か

この映画の主人公メアリー・アニングその人が、とても興味深い人物です。映画鑑賞後にどうしてももっと知りたくなり、吉川惣司・矢島道子著『メアリー・アニングの冒険』(朝日選書・2003年)を入手して読みました。以下、本稿ではメアリーに関する「史実」についてはこの本を参考にしています。

メアリー・アニングは、18世紀末にイギリス南西部の海辺の町、ライム・リージスで生まれました。もとよりこのあたりは化石が多く発見される地質学的に重要な土地で、メアリーは幼い頃から貧しい家計を助けて、観光客相手に売るための化石収集の手伝いをしていました。

メアリーの名が初めて歴史上に登場するのは1812年です。わずか13歳のメアリーがのちに「イクチオサウルス」と名付けられる古生物の化石を発見したことが大きなニュースとなります。じつはこれはメアリーの発見というよりも、兄ジョゼフも含む「ファミリービジネス」による発見というべきだったのですが、その後メアリーは独学で古生物学的な知識を身につけ、次々と重要な化石の発見と発掘を成し遂げます。博物学・地質学・考古学の権威者たちにもその名が広く知られるにいたります。

メアリーにとって化石発掘は、あくまで食べるため、生きるための仕事、掘り出した化石を金持ちの好事家や収集家たちに売りさばくことで生計をたてていました。でも、子どものころから培われた観察眼や発掘の技能、また大量の化石発掘に携わった経験によって、当代随一の古生物学の知識をもつようになっていったのです。化石発掘においては追随者がいないプロの仕事人としての自覚や自信も持っていたようです。

にもかかわらず、メアリーの名はその後長らく歴史の影に追いやられ、忘れられていました。20世紀になってから、ディケンズによる紹介をきっかけに「貧しいながら努力の末に大発見を成し遂げた少女」といった美談が広く知られるようになりますが、メアリーのトータルな業績は近年までほとんど知られていなかったようです。

なお、いちはやくメアリー・アニングをモデルにした映画として、1981年の「フランス軍中尉の女」が知られています。主演のメリル・ストリープの演技が高く評価された映画です。私も確か映画館で見たはずなのですが、恥ずかしいことになんの記憶も残っていません。劇中劇の複雑構造の映画なので、よく理解できなかったのかもしれません。

メアリー・アニングの肖像画 足下の黒白の犬はメアリーの愛犬トレイ

point 2 ケイト・ウィンスレットの背中の役作り

「アンモナイトの目覚め」は、40代になり人生の翳りを迎えていたころのメアリー・アニングを描いています。メアリーは乳癌を患って47歳で亡くなっていますので、最晩年の姿が描かれているということになります。

メアリーは、年老いた母の面倒を見ながら、荒波に侵食された足場の悪い岩場に一人で行っては、観光客や収集家に売るための化石やアンモナイトを掘り出すという日々を送っています。古生物学上の大発見をいくつも成し遂げ、大英博物館にも発掘品が収められているような業績がありながら、目の前の生活苦という現実に追われながら生きているのです。

実際のメアリーも、生涯、金銭的苦労が絶えなかったようです。ただし、心を許した女性の友人もいましたし、経済的苦境をつねに気遣ってくれる支援者もいたようなのですが、映画では、まるで地中のアンモナイトのように殻に閉じこもって、世捨て人のように生きている偏屈な女性というキャラクターをあえて「演出」しているようです。

何の役をやってもうますぎるケイト・ウィンスレットが、そんなメアリー像を生々しく演じています。冬の寒風が吹き荒ぶ海岸を、ありったけの質素な洋服を重ね着しドタ靴を履いて歩き回るその姿も、海の向こうや空を仰ぐこともなくひたすら地面や岩場ばかりを捜査するその暗い目も、どこか鈍重な獣めいています。

大きな化石を掘り出すために無理をして泥だらけになってしまい、狭く粗末な家のなかで湯を沸かしてカラダを拭うシーンがあります。重ね着していた洋服を脱ぐと、むっちりとしたセルライトだらけ(に見えるような)の背中があらわれて、ギョッとさせられます。とうてい「女優さんの肌」とは思えないような、まるで粗壁のような背中です。他者からも、おそらく自己からも、慈しまれることのなかった生き様を象徴しているかのような肌です。

映画パンフレットによると、ケイト・ウィンスレットもシアーシャ・ローナンも、女同士のけっこう激しいラブシーンも含めて、いっさいボディダブル(替え玉)を使っていないそうです。あのセルライトだらけの背中も、ケイト・ウィンスレットの演技力と役作りの賜物なのでしょう。

化石を掘り出すメアリー=ウィンスレット 公式ホームページより

point 3 メアリー=レズビアン説?

この映画の一番の見どころはなんといっても、メアリー・アニングの晩年をただ描いただけではなく、金持ちの令嬢シャーロットと激しい恋におちるという大胆なフィクションを加えたところにあります。

シャーロットその人はフィクションではなく、メアリーの人生に深く関わった実在の人物です。夫はイギリスを代表する地質学者となるロデリック・マーチソンです。映画のシャーロットはメアリーよりもかなり若く、夫に付き従うばかりの生活力のない女性として描かれていましたが、実際のシャーロットはメアリーよりも10歳ほど年上で、鉱物学に造詣のある知的な女性であるばかりではなく、メアリーに取り入ることによって夫を地質学者として大成させた張本人と言っていいほどに、したたかな女性でした。

マーチンソン夫妻は1825年、地質学研究のためにライムを訪問し、このときメアリーと出会いました。メアリーは26歳という若さで、すでに地質学界では知る人ぞ知る存在になっていました。シャーロットはメアリーの案内と手ほどきによって、ひとりライムに残ってしばらく化石収集に勤しんだようです。以来、シャーロットはメアリーの仕事を応援しながら、その業績を夫のキャリア形成に有効に利用していくのです。

映画の脚本も担ったフランシス・リー監督は、みずからがゲイであることから、階級やジェンダーというものに「強迫観念がある」と認めています(映画パンフレットのインタビューより)。そこから男性優位の社会における女性の生き方を深く見つめようとした結果、生涯独身を貫いたメアリー・アニングが求めるとしたら平等な恋愛関係だったのではないか、同性との恋愛関係ならありうるのではないかと考えたのだそうです。実在の人物の性的指向をフィクショナルに設定してしまうとは、なんという想像力、妄想力でしょう。

この妄想を徹底させるため、リー監督は実際にはメアリーよりも年上でしっかりものだったシャーロットを、キャラクター改編して可憐で一途で若々しい令嬢に変えてしまったのでしょう。ですので映画のシャーロットは「名前」こそ実在する女性ですが、ほぼフィクショナルな存在と見た方がいいと思います。

ちなみに、リアルなメアリーの生涯には、ヘンリー・トーマス・デ・ラ・ビーチという男性の存在があったようです。まだ二人が少年少女のころに出会い、生涯にわたってよき友人関係であっただけではなく、デ・ラ・ビーチは地質学者として成功を収めた後もつねにメアリーの境遇を気にかけていたようです。映画「フランス軍中尉の女」はこのデ・ラ・ビーチとメアリーのことを元ネタにしていたそうです。

この二人にロマンスがあったとの歴史的証拠は残されていませんが、フィクションにするならデ・ラ・ビーチを恋の相手にするほうが万人受けしたのではないかとも思います(なにしろメアリーと出会ったころのデ・ラ・ビーチは端正な美少年だったそうです)。そこをあえてシャーロットを相手にしちゃうあたり、リー監督の妄想力はかなりの筋金入りなのでしょうね。

point 4 シャーロットの変化がまぶしすぎる

シアーシャ・ローナンもまた若手のなかで定評のある演技派です。あの澄んだブルーの瞳がなんとも魅惑的で、清楚なのに激しい内面をもつ女性を演じるとよくハマりますね。この映画のシャーロットがまさにそんなタイプです。

映画のシャーロットは、男性優位の社会のなかで、「結婚」によって自由も人格も奪われてしまい、アンビバレントに陥っている女性として描かれます。夫婦の寝室で、夫の裸を冷めた目で見ているくせに、ベッドに入ってきた夫にしなだれかかって誘おうとします。夫はそんな妻の誘いを拒否し、鬱々として社会的な役目を果たさない妻をまるで欠陥商品のように扱います。

シャーロットははじめ、黒く重たい喪服のようなドレスを着込んでいます。ひょっとしたら大事な身内を失ったとか、あるいは妊娠しながら死産してしまったとか、何か重大な「死」に直面したばかりで、感情的にまだ喪から明けることができずにいるのかもしれません。それなのに夫を誘う行為には、早く子どもがほしい、(愛情が冷めている夫ではなく)愛情を注ぐ存在がほしいという切実な思いがあらわされているのかもしれません。

それがメアリーとの交流が深まるにつれ、明るい色のドレスを身につけるようになり、血の気がなく無表情だった顔に生気を取り戻していきます。メアリーとの恋に身を燃やすようになってからは、輝くような若さと美しさを放ち始めます。

映画の原タイトル「アンモナイト」は、おそらく男性優位の時代社会の閉塞感のなかに押し込められていた女性たちのことを暗示しているのでしょう。それを邦題が「アンモナイトの目覚め」としたのは、二人の出会いと恋によって新しい世界が開かれたことをあらわそうとしたのだと思います。でもじつはメアリー=ケイトのほうは恋に落ちても寡黙なまま、偏屈なままです。ほんのちょっと輝きそうになっても、たちまちまた殻の中に塞ぎ込んでしまいます。

それに比べてシャーロット=シアーシャの変貌ぶりはまばゆいばかりで、二人で出かけた町の名士のパーティ会場でもあっというまに人々の関心をさらってしまうほどです。よりはっきりぱっちり「目覚め」ることができたアンモナイトは、シャーロットのほうだったように思います。

そういえば、シャーロットは貧しく狭いメアリーの家の中でも、きちんと身支度をしてドレスアップし、明るい色の髪をいつも編み込みにして結っています。その髪型がちょうどトグロを巻いているような形で、私はそれを見るたびアンモナイトを連想していました。

海辺にそっと置かれたアンモナイトの化石のような二人 公式ホームページより

point 5 演技の格闘技みたいなラブシーン

メアリーは、ロデリックから金銭的見返りとともに無理矢理シャーロットの世話を押しつけられます。シャーロットが高熱を出したときも露骨に迷惑がっていたのですが、医者から諭されるままに献身的に介抱するうちに、シャーロットのことを気にかけるようになります。

家事など何一つせずに生きてきた有閑階級のシャーロットは、メアリーの家のなかでも化石発掘の現場でも足手まといになりますが、健康を取り戻すにつれ屈託のない好奇心と邪気のない才気を発揮しはじめ、メアリーの永久凍土のような心を溶かし始めます。

メアリーはもともと同性愛的思考をもっている女性として描かれています。過去に、ある裕福な女性と恋愛関係になって痛い思いをしたことがあり、以来女性からも男性からも身を遠ざけてきたらしいということがストーリーのなかで暗示されます。

シャーロットにも同性愛的な指向があったのかどうかは、はっきりとわかるようには描かれていません。「籠の鳥」のような生き方しか知らなかったシャーロットにとって、貧しいながらも自分の仕事と専門的な知識や技能をもつメアリーは、少なくとも尊敬の対象にはなったことでしょうが。

私にはどうも、シャーロットはメアリーの性指向を察知し、最初はメアリーに受け入れてもらうため、やがてはメアリーを自分のものにしていくために、肉体の関係も「辞さない」覚悟をしていったのではないかと思えてなりません。そういう形でしか他者との関係を結べないほど、不自由な社会のなかで生きていた女性なのではないか。それが、ラストの二人のすれ違いを生み出していったのではないかと思うのです。

メアリーとシャーロットのラブシーンは思いのほか激しく、エロチックで、まさにケイト・ウィンスレットとシアーシャ・ローナンが体当たりで演じています。ケイトが1975年生まれ、シアーシャが1994年生まれですので、ほぼ20歳の年齢差があります。20歳といえば母娘ほどの年齢差です。それだけ演技のキャリアは圧倒的にケイトがまさっているわけですが、シアーシャも決して負けてはいません。そんなこともあってか、二人のラブシーンは、互いが与えあうというよりも、互いが奪いあうような激しさがありました。演技の格闘技のようにも見えるほどでした。

私は正直、この映画の女性同士のラブシーンの激しさには当惑しました。なぜここまでの描写をする必要があるのかと当初は疑問にも思いました。が、リー監督がパンフレットで語っていた「階級やジェンダーについての強迫観念」という言葉をじっくり考えたり、メアリーとシャーロットの人物描写の深さを想い直したりするうちに、二人の激しすぎるラブシーンこそはメアリーとシャーロットの危うい関係をみごとにあらわしていたのかもしれないと思い直しました。

point 6 もう一人の恋人――エリザベスについて

映画では、孤独なメアリーのことを遠くから見守っているらしい、エリザベスという上流階級の女性が出てきます。エリザベスこそは、かつてメアリーと恋愛関係にあった女性なのです。メアリーの一途な思いを受け止めきれずに傷つけてしまったことを、今も気にしているようです。

このエリザベスも実在の人物で、メアリーが幼いころから交流のあったフィルポット家の三姉妹の一人です。この三姉妹――メアリー、マーガレット、エリザベスは、ロンドンで弁護士を開業している父親のおかげで恵まれた暮らしをしていましたが、なんと三人とも生涯独身を通しました。幼くして父を亡くし経済的苦境に陥っているアニング家のことを気遣い、メアリーが化石発掘で自活できるようになるまで多くの化石を買ってやるなどして支え続けました。

なかでもエリザベスはみずからも化石収集に高い関心をもち、メアリーよりも20歳ほど年上でしたが、研究者仲間として長きにわたる友情を育んでいたようです。二人ともたんなる発掘家や収集家であるだけではなく、原生生物を解剖して化石と比較するなど、かなり専門的な研究にも踏み込んでいました。

もちろん、メアリーとエリザベスが恋愛関係にあったというのは、これまたリー監督によるフィクショナルな設定です。メアリーと同じように生涯独身で化石研究にのめり込んでいたエリザベスは、メアリーの同性愛の相手として設定するには格好の人物だったということなのでしょう。

映画では、メアリーがもう何年も交流を絶っていたらしきエリザベスの家を訪ねて、高熱で寝込んだシャーロットのために自家製の軟膏を分けてもらうシーンがあります。この軟膏は史実に基づいていまして、フィルポット家の軟膏はどんな怪我にもよく効くと言われて大人気だったそうです。

point 7 女は磨き続ける人生なのか

映画の冒頭、博物館の床を年老いた掃除婦が這いつくばってボロ布で磨いているシーンがあります。そこへ数人の男たちがドヤドヤと、拭き上げたばかりの床を踏みつけて化石を運び込んできます。メアリーが若くして発見したイクチオサウルスの化石です。

化石には発見者であるメアリーの名前を記す札が掛けられていたのですが、展示台に置かれるやいなや、収集家の名前に掛け替えられてしまいます。

この掃除婦が磨いた床を男たちが踏みつけていくシーン、続いてメアリーの名前が掛け替えられてしまうシーンは、リー監督が言及していた階級差別やジェンダー差別の有り様を端的に示しているように思います。とくに、女性が何かを生産するのではなく、ひたすら何かを磨きつづける「単純労働」に従事する姿は、この映画の基調のように繰り返し描かれます。

メアリーの老いた母は、毎日小さな犬の置物を布で磨き続けています。手伝うメアリーに対してわずかな拭き残しも許さないほどで、まるで厳格な儀式のようです。じつはメアリーの母親は10人もの子どもをもうけながら、成人まで生き延びたのはメアリーと兄のジョゼフだけでした。彼女が磨き続けている犬の置物は、亡くした子どもたちの代わりなのです。

メアリーもまた、掘り出した化石を「売り物」や「展示品」にふさわしいものに仕上げるために、石塊の中の骨を傷つけないように気をつけながら土を削り取り、磨き上げるという作業を黙々とやり続けます。

シャーロットがメアリーの仕事の一部始終を知るようになり、店を訪れた収集家に対してメアリーがいかに精魂を傾けてプロフェッショナルな仕事をしているかを滔々と語り、それ相応の値段で買い取ることを要求するというシーンがあります。けれどもメアリーはシャーロットがそのように自分の仕事の価値を吹聴することをあまり喜ばないようです。

実際のメアリーは、自分が掘り出した化石の価値や、その価値を生み出す自分の仕事の正確さを、言葉巧みに収集家たちに売り込んでいたようです。そのような「ビジネス書簡」が多く残されています。そこには、ろくな教育を受けていなかったので綴りの間違いなどが多くみられるそうですが、化石に関してはかなり専門的な知識を持っていたことが明らかだそうです。

でもリー監督は、あえて床を磨く掃除婦や置物を磨くメアリーの母と同列に化石を磨き続けるメアリーの仕事を描くことで、階級社会や男性社会から疎外された女性たちの生き様とはどういうものなのかを、鋭く抉ってみせているように思います。

彼女たちとは明らかに違う階級の女性であるシャーロットは、「磨き仕事」が宿命づけられているわけではありません。メアリーに手ほどきを受けて貝殻で装飾したフレームをつくったり、ハンカチに刺繍をしたりという手すさびのような「仕事」に従事します。このあたりの対比もたいへん興味深い描き方です。

point 8 対峙するメアリーとシャーロット

シャーロットが夫の一声であっさりとロンドンに連れ戻され、ついで母親が亡くなってしまい、天涯孤独となったメアリーのもとに、シャーロットからロンドンへの招待状が届きます。メアリーは質素ながらありったけのお洒落をして、なけなしのお金をはたいて船に乗り、初めてライムの街を出てロンドンに足を踏み入れます。

マーチソンの邸宅では、年老いた使用人の女性から冷たい出迎えを受けます。通された客間にはロデリックが収集した化石がディスプレイされています。そのなかにメアリーが掘り出した化石もあり、そこに付けられている札には、収集家の名前の上に新たにメアリー・アニングの名前が貼り直されていました。シャーロットの精一杯の愛情表現なのでしょう。

客間にあらわれたシャーロットは、使用人の怪訝な表情も気にせず、メアリーに飛びついて抱擁しキスの雨を降らせます。すっかりメアリーとの再開に昂奮しています。その勢いで、メアリーが予想もしていなかったことを提案しはじめます。

シャーロットは邸宅内に、メアリーのための居室を用意していたのです。いかにもセンスのよい調度品が揃えられた美しく瀟洒な部屋です。シャーロットみずから采配を振るって数ヵ月をかけてメアリーのために整えたのでしょう。貧しく狭いメアリーの家とは雲泥の差です。シャーロットは上機嫌でメアリーに部屋を見せながら、ライムの街を離れて、この部屋で、この邸宅で、シャーロットとともに暮らしてほしいと言うのです(夫は化石に夢中だから何も気にしない、大丈夫だというふうにも)。

とまどうばかりのメアリーに、シャーロットは、もうあのつらい化石収集はしなくていい、ここで暮らしながら思う存分に研究の仕事に従事してほしい、と説得しようとします。ところがメアリーはたちまち険しい表情となり、シャーロットが自分の生き方を理解していないと言って詰ります。私は化石棚の標本のようにはなりたくない、私は海に出て化石を掘っているときこそ自由なのだと言って、邸宅を飛び出していってしまうのです。

メアリーは傷心のまま、本来のロンドン行きの目的であった大英博物館を訪れ、初めて自分が掘り出したイクチオサウルスの化石に対面します(化石に対面する前に、壁面にずらりと飾られた男たちばかりの肖像画のコーナーを通りすぎていくシーンがあります。リー監督、なかなかに痛烈です)。

メアリーが発見した イクチオサウルスの化石 公式ホームページより

化石に添えられたキャプションにはメアリーの名前はなく、収集家の名前が記されているだけです。それを目の当たりにしたメアリーの顏には、怒りも悲しみも読み取ることができません。化石を探して海辺をうろつくときの、あの鈍獣のような表情を浮かべるばかり。自分の名前が伏せられていることなどすでに知っていたという、諦めの表情なのでしょう。

そんなメアリーの前に、シャーロットがあらわれます。こちらは怒りと悲しみに満ちた表情で、化石の標本棚をはさんで、挑みかかるかのようにメアリーの貌を凝視します。あの美しい瞳が青い炎のようにメラメラと燃えています。一世一代の愛情表現をしたつもりだったのに、それを受け入れてもらえなかったばかりか、自分の生き方そのものを否定されてしまったようなものなのですから、シャーロットの憤懣は相当なものだったでしょう。

このエンディングにはかなり考えさせられました。あれほど激しい恋愛関係を結んだ女性同士が、こんなにも鋭く険しい対立をしたまま終わってしまうのですから、映画館を出てしばらくは、気持ちのもっていきようがないような、やるせない気分を味わいました。

けれどもこれこそは、リー監督が自己分析してみせた「階級とジェンダーについての強迫観念」のなせるわざであり、その強迫観念を作品へと昇華させながら用意周到に組み立てた秀逸なラストシーンなのだと、いまでは考えています。

女性が自分の生き方を好きなように選ぶということが許されない時代のなかで、死ぬまで自分の足で歩き、自分の目と手と知を使い切ったメアリー。その希有な生き様は、あのようにメアリーとシャーロットの決定的な亀裂を描くことで、いっそう強く刻印されたように思います。

私ごとですが

この映画に対する評価は自分のなかで揺らいできました。見終わった直後は、激しすぎるラブシーンへの疑問やラストの断裂と対立への戸惑いで、どちらかというと不消化感がつのりました。けれども『メアリー・アニングの冒険』を読んで、リアルなメアリーの生きざまと足跡を知ったことで、映画に対する見方も変わっていきました。

この映画があえて史実を曲げて、実在の人物の設定を変更までして同性愛を主調にしたことについては、メアリーの末裔からのクレームもあったそうです。これも「さもありなん」と思います。でもよくよく考察を進めるうちに、この映画に込められた、みずからもゲイであるリー監督のメッセージには、目を凝らし耳を傾ける価値があると思うようになりました。

この映画は、LGBTへの考え方や理解が変化し深化してきた「いま」という時代でなければ生み出されなかったものだと思います。ジェンダー差別や階級差別によって歴史の奥に埋没させられてきた人物の生き様に光を当てるだけではなく、想像力を駆使してフィクションもまじえて描くことで、新しい人間観や歴史観や価値観を表現していく――。こういうチャレンジングな映画が、これからもっともっと出てくるのではないかと思います。楽しみにしたいです。