君の名前で僕を呼んで/Call Me By Your Name


流れる空気も色彩も情感も
まるで美貌の青空のような至福の映画。

映画の紹介

 北イタリアの別荘で両親とともに一夏を過ごしていたエリオは、音楽の才能に恵まれた多感な17歳。父が招いた24歳の大学院生オリヴァーへの反発まじりの好奇心が、やがて焦がれるような恋心になっていく。1980年代、まだまだ同性愛が市民権を得られていなかった時代設定でありながら、二人の美しい青年たちが恋の冒険に身を投じていく姿が、青空のようにすがすがしく、みずみずしく、せつなく描かれる。さまざまなLGBT映画紹介のサイトなどでも必ず上位に入っているほど、熱烈なファンをもつ映画。

原題:Call Me By Your Name
制作:2017年/イタリア・フランス・ブラジル・アメリカ
監督:ルカ・グァダニーノ
脚本:ジェームズ・アイヴォリー
キャスト:ティモシー・シャラメ アーミー・ハマー マイケル・スタールバーグ

映画の見どころ

point 1 主役二人のケミストリー

 エリオを演じるティモシー・シャラメは撮影当時22歳(1995年生まれ)、オリヴァー演じるアーミー・ハマーは31歳(1986年生まれ)と、物語の設定より少し「おとな」なのですが、夏の避暑地で恋に落ちる青年同士を、生き生きと、また繊細に演じています。はじめは視線を合わせることさえ互いに警戒気味だったのに、やがて「臨界距離」を超えてジャレあい(いちゃいちゃ)する関係に変わっていくプロセスもあまりにも自然で、エリオとオリヴァーである以前に、ティモシーとアーミーの当人同士が、すばらしいケミストリーを交換しあっているように感じます。

 それもそのはず、この映画はロケ地となった北イタリアのクレマに、監督も出演者もスタッフ(監督の会社のチーム)も準備やリハーサルの段階からいっしょに住み込んで、かなり密度の濃いコミュニケーションが育まれていたそうです。加えて、撮影は脚本の冒頭からカットの順番に沿って進められたため、ティモシーとアーミーの親密さがリアルに変化していった様子が垣間見えることになったようです。

  グァダニーノ 監督は、すべての映画は監督と俳優とのあいだのラブストーリーであり、俳優たちが人工的につくられた演技によって人物を表現するのではなく、監督と俳優、また俳優同士の関係性が映画をつくる課程で深まっていくこと、それによって人物が「誠実」に表現されていくことを重視していると、さまざまなインタビューで語っています。監督はまた、それゆえにオーディションを好まないということも公言していました。

 ティモシーとアーミーの奇跡的なケミストリーは、 この二人に惚れ込んだグァダニーノ監督による「恋のマジック」によって醸し出されたものなのかもしれません。

point 2 フィルムが醸し出す空気感

 この映画は、風景や色彩などの画面そのものの質感もたいへん美しく、じつは全編35ミリシングルレンズで撮影されています。光や風の粒子が皮膚感覚で伝わってくるような風景や、人物たちの心の動きとともに変化するように見える色彩の温度感や湿度感は、フィルム撮影ならではの効果なのでしょう。映像を何度も見直したくなる大きな要素です。

 グァダニーノ監督はデジタルカメラでの撮影よりもフィルムでの撮影を好んできた監督ですが、その理由について「デジタルは、セットでシネマトグラファーとリアルなイメージを作り上げるので、その場その時をカメラに収めようとする私のコンセプトと調和しないのです」と語っています。(KODAKメールマガジン「映画 『君の名前で僕を呼んで』」より)。

 またグァダニーノ監督はメイキング映像のなかでは、35ミリシングルレンズのワイドショットで撮影したおかげで、出演者の誰もカメラの存在を気にしなくなった、俳優たちの自然な演技に結びついたともコメントしています。監督のこだわりは、撮影技法にも一貫しているんですね。

 いまやデジタルカメラでの撮影がすっかり主流となっている映画界ですが、フィルム映画ならではの質感やさまざまな技術的理由から、いまもフィルム撮影にこだわっている監督が少なくないようです。唯一、映画撮影用のフィルムをつくっていたKodakが2012年に破産申告したときには、フィルム映画を好むタランティーノ監督、ノーラン監督、スコセッシ監督らがフィルム買い取り契約をすることでKodak救済に乗り出し、話題となりました。

 ふだんあまりデジタル撮影かフィルム撮影かなんてことは気にせず映画を愉しんでいますが、グァダニーノ監督のように画面の質感から撮影技法にまでフィルム撮影の必然性をこめている作り手の作品に出会うと、これからはもう少しそのあたりのことも気にして見てみようかなという気になります。

point 3 古代ギリシアの少年愛の世界

 番組のオープニングシーンで、ジョン・アダムズの「Hallelujah Junction」に乗って、古代ギリシア・ローマ時代のものらしき青少年の美しい彫像の写真が次々と出てきます。これは、エリオのお父さんであるパールマン教授と、教授のもとで一夏だけ助手をつとめながら著作(博士論文?)の仕上げをしているオリヴァーの研究対象となっている世界をあらわしているのでしょう。

 もちろん、古代ギリシアが制度的にも哲学的にもたいへん重要視していた「少年愛」も意味していることはまちがいありません。古代ギリシアの少年愛がなんたるかについてはWikipediaの「少年愛」が要訣を解説してくれていますのでそちらを案内させていただきます。ソクラテスが名うての少年愛の狩人だったというおもしろいエピソードも綴られています。

 本編のなかでも、古代ギリシアの少年愛との結びつきを思わせるシーンがいくつかあります。パールマン、エリオ、オリヴァーが別荘近くの湖で発見された、古代の彫像の引き上げを見学にいくシーンがあります。このとき水の中からあらわれた彫像がエリオそっくりな両性具有的な美少年なのです。その彫像の唇に、エリオの見ている前でオリヴァーがそっと触れてみせるという、どぎまぎシーンが出てきます。

 またパールマン教授が大量のギリシア~ローマ時代の彫刻のスライドを、オリヴァーとともに整理しながら、生き生きとそれらの彫像の魅力を語るシーンもあります。ここでも登場するのは青少年の彫像ばかりで、教授が暗に古代の少年愛の世界をオリヴァーに導こうとしているかのような印象さえ受けます(オリヴァーもまた、ギリシア彫刻のように均整のとれた美青年です)。じつはパールマン教授も若かりし頃に同性愛的な嗜好をもち、悩んだ時期があったことが映画の最後に明かされますが、それを知ってもう一度このシーンをみると、パールマン教授もまた、美しきオリヴァー青年の出現で若いころのときめきを取り戻していたのかな、という気がしてきます。

point 4 オリヴァーの「後で」の意味

 映画の原作であるアンドレ・アシマンの小説は、エリオの日記のように完全に一人称で、オリヴァーへの募る思いがひりひりするほど細やかに綴られています(この映画をより深く理解したいので原作も読みました!)。映画の前半もこの原作のモードを生かすかのように、エリオの視点からのみ二人の関係があらわされていきます。

 毎夏、お父さんが招き入れる短期間の助手のために、エリオは別荘のなかの自分の部屋を明け渡し、「侵略者」とバスルームを共有しながら狭い部屋で過ごさなければなりません。しかもこの夏やってきたのは、非の打ち所がないほどの容姿に恵まれ、まるでアメリカという国を象徴するかのように自信に満ち、たちまち家族や若い友人たちの好意を獲得してしまう青年です(原作では、お母さんがカウボーイとかムーヴィースターとか呼んで、オリヴァーへの好意を示します)。

 エリオは最初、そんなオリヴァーに反感を抱きます。なかでもオリヴァーの口癖「後で」にいらつきます。原作の冒頭で綴られるのがそのことで、「あの言葉、あの声、あの言い方・・・・・・(略)乱暴で無愛想でそっけなくて、もう二度と会ったり話したりしない相手に関心はない、という冷淡な響き」とあります。映画でも、オリヴァーがエリオや家族に対して、コミュニケーションをばさっと断ち切るかのように「後で」を連発しています。

 アーミー・ハマーは完成披露トークショーのなかで、この「後で」について、オリヴァーは傲慢で自信家に見えるが、何かが露呈してしまうことを怖れ、そこに長居したくない、先にその場を去ることで完璧な自分を演じようとしていて、それが「後で」という台詞になっているのではないかと語っています。そんなアーミーの「後で」のぴしゃりとした、それでいて悪びれない言い方は、原作に照らしても完璧なほどでした。

point 5 二人の関係変化をみつめる長回し

 次第にオリヴァーへの恋心とともに若い性欲もつのってしまい、満たされない思いをガールフレンドとのセックスで満たそうとするなど、成熟した知性と身体の未熟さのあいだでアンバランスになっていくエリオ。ともすればいやらしくきわどいシーンになってしまいそうなところでも、ティモシーはのびのびと奔放に演じています。しばしば子猫のように予想外のふるまいさえ見せるのですが、これも俳優の自然な演技を引き出すグァダニーノ監督の演出法によるものらしいです。

 そんなエリオの不器用なアプローチやほのめかしによって、オリヴァーはエリオの恋心に気づきはじめます。そのあたりから、カメラは悩ましいオリヴァーの表情のほうもアップで捉えます。アーミー・ハマーはハリウッド屈指の高身長(196㎝)で、ガタイがよすぎて女優相手の映画ではラブシーンがやりにくそうに見えることもあるのですが、とても繊細なグラデーションのある表情の演技ができる俳優だと思います(スタンリー・トゥッチ監督の「ジャコメッティ」では立派なガタイを封じて、この顔芸だけで十分に見せていました)。

 いよいよエリオがオリヴァーに思いを告げるシーンは、本作のなかでももっとも印象的で、また見事なカメラワークによる長回しが行われている点でも最高の見どころの一つです。二人は自転車で町に出かけ、第一次世界大戦の記念のモニュメントのまわりを離れ離れになって巡りながら、互いの気持ちをさぐりあうような会話を紡いでいきます。ざっとこんな調子です。O:「君は何でも知っているんだね」 E「肝心なことは何にも知らないんだ」 O:「肝心なことって?」 E:「知っているくせに」 O:「なぜそんなことを言うの」 E「知ってほしいから」。 O:「それは僕が思っていることと同じ?」

 山のように大きな戦争のモニュメントは、まさに二人のあいだに立ちはだかる障壁そのものに見えます。なんといっても同性愛に対する社会の見方(物語の時代設定は1980年代です)や世間体というものがあるでしょう。またじつは二人はユダヤ教徒なので(ダビデの星のペンダントが二人の関係変化のキーモチーフになります)、恋を成就するうえでの宗教的な問題もあることでしょう。もちろん、うかつに思いを知られて「傷つきたくない」という、心理的な防御壁も象徴しているようです。

 このシーン、二人はサングラスをかけています。だから大事な告白をしているのに、モニュメントをはさんで彼我の距離にある二人の表情は、見る側にもまったくわかりません。ただただ互いを遠巻きに言葉の探り合いをする二人の姿が、長回しで追われていくのです。ようやく二人は至近距離で対面しますが、オリヴァーが「そんなことを口にしてはいけない」とエリオを短い言葉で鋭く牽制し、話題を変えて空気をそらしてしまいます。

 けれどもこのシーンから以降、二人の関係はどんどん深みへと突き進んでいきます。エリオはより大胆になり、オリヴァーのほうが恋の成就をすべきなのか、すべきではないのかの葛藤のなかでアンバランスになっていくかのようです。そういう点でも、この告白シーンはたいへん重要なのですが、それをこのような多弁を労さない演出でワンカットで撮り切ったグァダニーノ監督、すばらしい演出、すばらしい手腕だと思います。

point 6 音楽だけでも堪能できてしまう

 戦争モニュメントのまわりの告白シーンとその後に続く草むらのなかの初めてのキスのシーンまで、ラヴェルのピアノ組曲「鏡」の「洋上の小舟」がとても印象深く使われています。あたかも小舟が洋上で大波小波に翻弄され、ときに激しい波に飲み込まれそうになりながら、行方知らずで漂いつづけているような曲です。エリオの揺れる気持ちや、エリオの告白によって激しく動揺しはじめる二人の関係をあらわしているかのようです。

 しかも少し流れてはぶつりと中断され、また少し流れては中断されるというように、かなり強く作為的な使われ方をしています。有名なクラシックの音楽をここまで作為的に使うというのも珍しいと思いますし、私自身が好きな曲なので、とても驚きました。

 「君の名前で僕を呼んで」は全編にわたって多種多様な印象深い音楽が使われています。音楽だけに特化してもいくらでも堪能したいことが出てきそうです。エリオは原作の設定ではのちにプロのピアニストになるくらいなので、もちろんピアノ曲は重要な要素になります。映画の前半ではもっぱらエリオの気持ちを代弁するかのようにBGMとして、またエリオ自身が奏でることで気持ちや状況の表現としてピアノ曲が使われます(坂本龍一の曲もいくつか使われています)。

 エリオの世界観をあらわすピアノ曲とは対照的な、1980年代のユーロポップスとおぼしき曲もふんだんに使われています。エリオとオリヴァーが気楽に付き合う若者たちとのスポーツやダンス、あるいはエリオとガールフレンドのいちゃつきシーンなどをおもしろく、ちょっとレトロに彩っています。

 この映画のために作曲されたらしきスフィアン・スティーブンスの曲も耳に残ります。全部で3曲あり、うち2曲「Futile Devices」「Visions of Gideon」はエリオの思いをせつせつと伝えるかのように、もう1曲「Mystery of Love」は刹那の恋の成就に身を任せる二人に寄り添うように使われています。どれも美しくて沁みるラブソングです。私はこの音楽に浸っていたくて(それによって映画の余韻にも浸りたくて)、サントラ盤をダウンロードしてしまいました。

 ほかにおもしろく思ったのが、80年代に人気を博したサイケデリック・ファーズの「Love My Way」の使い方。若者たちが集うダンスナイトで、エリオがオリヴァーへの恋心を自覚するという重要なシーンでこの曲がかかるのですが、それまで女性とのチークダンスを愉しんでいたオリヴァーが弾けたようにノリノリで踊り出します。この曲は終盤のオリヴァーとエリオの“ハネムーン”のときにも再登場し、そのときはオリヴァーが「リチャード・バトラー( サイケデリック・ファー ズのヴォーカル)最高だね!」と、またしても地元の女性とダンスに興じます。 「Love My Way」 があたかも、“我が道を行く”オリヴァーのテーマソングのように使われるのが、なんともユニークでした。

point 7 この父母にしてこの息子あり

 エリオの父パールマン教授と母アネラも、教養豊かで社交的で、いまだにお互いへの熱情を失っていないことがうかがえる素敵な夫婦です。著名な考古学教授であるパールマンはもちろんですが、原作によるとアネラもまた翻訳の仕事をし何カ国語にも通じた知的職業人という設定です。映画でも夫と息子のためにドイツ語の本(『エプタメロン』という16世紀フランスで書かれた小説のドイツ語版)を英語に翻訳しながら朗読するシーンがあります。エリオも家族とは英語で、地元の人びととはイタリア語で、ガールフレンドとはフランス語を話すなど語学堪能、音楽はもちろん文学や美術や歴史にも明るい知的な青年です。まさにあの父母にしてこの息子、なんですね。

 父パールマン教授を演じるマイケル・スタールバーグはアメリカの舞台・映画俳優で、この映画と同じ年に「シェイプ・オブ・ウォーター」「ペンタゴン・ペーパーズ」にも出演し重要な役を演じています。アネラを演じるアミラ・カサールは、シルヴァーノ・マンガーノとモニカ・ベルッチを足して2で割ったような面立ちと妖艶さから、てっきりイタリア人かと思いましたが、クルド人の父とロシア人の母をもち、イギリス出身ながらフランスで活躍する女優なのだそうです。

 アネラは早い段階からオリヴァーとエリオのそれぞれの気持ちを知りながら、まるで応援するかのような口ぶりで理解を示したりもします。美しく有能なだけではなく、偏見にとらわれない自由な思想信条の女性なのです。

 パールマンもまた、同性愛に対する偏見をみじんも持たないどころか、自身も同じ性向をもっていたことを映画の終盤で証かします。このときのパールマン教授の長広舌のセリフがすばらしく、またしても長回しのシーンですが、パールマンを演じるスタールバーグこそがこの映画の格調と品格を担っているのだという気がするほどの、名シーンになっています。

 オリヴァーとの別れに深く傷ついているエリオに対して、パールマンはエリオとオリヴァーという希有な知性と善良さをもつ青年同士がお互いを見いだし格別な「絆」を結んだことを祝福します。そして、失恋の痛手から立ち直ろうとして感情を殺してしまうのではなく、その痛みを恋の歓びの記憶とともにむしろ大切にしてほしいと話します。それこそはかつてのパールマン教授が踏み出せなかったこと、つかみ損なってしまったことだったのですね。

point 8 なぜにハエと鼻血と嘔吐?

 北イタリアの美しい風景、美しい主役二人の美しいラブシーン、美しい両親に美しいセリフと、何もかも「うつくし尽くし」のようでありながら、よくよく見るとこの映画、決して美しいとはいえない、ちょっと変わったモノや生理現象もあつかわれています。

 たとえばうるさく飛び回るハエ。エリオがオリヴァーへの思いをつのらせ自慰をしようとしているシーンでうるさいハエが一匹飛び回り、エリオにたかったりします。またラストシーンは真冬の設定なのですが、オリヴァーから電話で衝撃の報告を受けたエリオが暖炉の前でひとり涙にむせぶシーンでも、ハエが一匹ずっとエリオの肩を歩き回っています。このハエはどう考えても偶然映り込んだものではなく(そんなうかつなことを監督が許すわけないですね)わざと入れ込まれたものだと思いますが、何かエリオの情けない思い、満たされない欲望を象徴しているような気がします。

 エリオが自慰に及ぼうとするシーンは、小物も動作もユニークです。たとえばオリヴァーの脱ぎ捨てた水着を頭からかぶって、オリヴァーの寝ているベッドに股間を擦り付ける。庭の果樹園でとれた桃を愛おしそうに愛撫しながら割れ目に指をつっこみ、ついには陵辱してしまうという、びっくりするようなシーンもあります。これらは原作にも描かれているシーンですが、美貌のティモシー・シャラメがまるで男の子の自然の摂理だとでもいうように淡々と演じているので、いやらしさはまったくありません。

 はじめてオリヴァーとキスを交したあと、別荘の訪問客のやかましい政治談義のさなかに突然エリオが鼻血を出してしまうシーン、両親のはからいで実現したオリヴァーとの小旅行のなかで、地元の若者たちとダンスに興じるオリヴァーを眺めながら嘔吐してしまうシーンも、唐突で不思議です。これらも原作に描かれるシーンですが、映画ではエリオの若さや未熟さ、オリヴァーの前でつい無理をして大人として振る舞おうとするエリオの心身のアンバランスや自家中毒のようなことをあらわしているように思います。

point 9 「君の名前で僕を呼んで」というセリフ

 映画を初めて見たとき、このセリフはてっきりエリオの気持ちであり、エリオのセリフとして登場するのかと思っていましたが、すっかり裏切られました。ようやくエリオとオリヴァーが結ばれ一夜をともにしたとき、オリヴァーが口にするセリフなのでした。アーミー・ハマーのささやく「Call me by your name, and I’ll call you mine」、体がほてってきそうに熱くて甘いです。

 エリオとオリヴァーが仲違いをして、古代彫刻の引き上げにパールマン教授とともに立ち会ったときに「仲直り」し、3人で無邪気に水遊びに興じるシーンがあります。このときはじめてエリオとオリヴァーは互いの名前を大声で呼び交わします。二人が結ばれてからは、オリヴァーの言葉どおり、二人は互いの名前を自分の名前で呼び合うという秘密の決めごとを何度も交換します。

 恋人どうしにとって、お互いの名前というのは神聖なものだと思います。その神聖な恋人の名前が自分の名前になること、恋人が恋人の名で自分を呼び、恋人の名を自分の名で呼ぶというのはどういうことなのでしょうか。私は、オリヴァーがエリオにした提案は、社会のなかでは成就することは決して願えないけれど、まさに指輪を交換するように、二人のあいだでだけは永遠に続く絆にしたいという切なる思いが込められているように思いました。

 オリヴァーの切実さは、二人が一夜を過ごした直後から、まるでエリオとの関係が逆転してしまったかのように、露わになっていきます。エリオはなぜかオリヴァーにそっけない態度をとり、オリヴァーはそんなエリオの態度を訝しがり、エリオが後悔しているのではないか、傷つけてしまったのではないかと怖れます。オリヴァーの気持ちを知ってすっかり大胆になっていくエリオとは対照的に、オリヴァーは若いエリオをいたわりつつも、自分が踏み込んでしまった道を進むべきなのかとどまるべきなのか、深い葛藤に陥っていきます。ここでもまたアーミーの切ない「顔芸」が絶品です。

 オリヴァーはエリオとは違い、同性愛にまったく理解のない家族や環境で育っています(映画のラストでそのことが明かされます)。おそらく早くに自分の性癖に気づきひた隠しにして世渡りしてきたでしょう。いえ、処世術にも長けていそうなオリヴァーのこと、あんがい上手に男性とも適当に「遊んで」きたかもしれません。だとしても、エリオとの出会いだけはオリヴァーにとっても運命的で、決して失いたくないものだったのでしょう。

 ちなみにエリオの「直後の冷淡」はたぶん誰もが初体験で味わう苦い落胆のようなもの、あらんかぎりの想像力と妄想力で思い描いていた初体験ほど甘くもおいしくもなかったという、あの一時的な生理的なむなしさなんだろうと思います。

point 10 長い長いラストシーンのエリオの涙 ★ネタばれ注意

 オリヴァーとの別れから数ヶ月が過ぎ、シーンはすっかり冬景色となります。この冬景色の描写がまた息をのむほどきれいです。色彩がすっかり抜けてしまったかのようなモノトーンの林や湖畔に、パウダーのように細かい雪が静かに降りつづけ、まるで西洋山水画のような風情です。

 夏のあいだパールマン教授の別荘は近所中の老若男女が訪れる社交場として賑わっていましたが、冬は訪れる人もいないようで、一家はユダヤ教のお祭り「ハヌカ」の準備にいそしんでいます。耳にイヤホンをして踊るようにしながら帰宅したエリオも、モノトーンのファッションに身を包み、明らかに夏のころよりも大人びています。

 そこへオリヴァーから電話がかかり、エリオに婚約の報告を告げるのですが、エリオは何かを察していたかのようにそのことをオリヴァーから言われる前に言い当ててしまいます。「何も言ってくれなかったね」とほんの少し恨み言をいいながら。そうして、二人の秘密の、お互いの名前を自分の名前で呼び合うというあの決めごとを再びかわし合います。「何もかも、忘れない」とささやくオリヴァーの声。それは「何もかも、もう過去なんだね」ということを告げているようでもあって、見ている側も胸が締め付けられます。

 ラストは、ハヌカの準備にいそしむ家族を背に、暖炉の火に向かって思いにふけるエリオのアップです。スフィアン・スティーブンスの「Visions of Gideon」が流れ、またしても長回しです。そのままエンドロールが重なっていきながら、なんと延々3分半にもおよぶエリオ=ティモシーのアップが続くのです。いろいろな思い出や感情が去来しているように、その目がしだいに潤み、涙がこぼれます。でも心なしか微笑みも浮かべているようです。ティモシーが最年少でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされるという快挙をものにしたのは、このラストシーンの演技が高く評価されたことが大きかったようです。

 ラストの長回しカットについて、完成披露トークショーのなかで、ティモシーとグァダニーノ監督は、こんなことを明かしていました。もともとこのシーンは脚本にもなかったが、撮影が進むなかで監督がティモシーの演技の深まりをみながら、撮影開始直前に決定した。撮影時にはスティーブンスの曲が完成していたので、ティモシーはそれをイヤホンで聞きながら演技することができた。ぜんぶで3テイク撮影されたが、監督はドライ、セミドライ、ウェットの3つの方向性を示し、最終的にセミドライが採用された・・・・・・。

 このラストシーンの成り立ちを聞くだけでも、グァダニーノ監督の映画づくりの方法論や仕掛け方にすっかり敬服してしまいます。決して莫大な予算をつぎ込んでいる映画ではないのですが、こういう映画こそ、ほんとうに贅沢な作り方の映画だといえるのではないかと思います。

私ごとですが

 この映画がどのように評価されているのかをネットでいろいろあさっていると、ほかのLGBT映画との類似点や共通点をあげているものが結構ありました。そういう質問を受けて監督がコメントをしている映像などもありました。ざっと次のようなことが話題になっていました。

●草むらの中のファーストキスは「モーリス」(ジェームズ・アイヴォリー監督)へのオマージュではないか。
●二人が景観の美しい山にハイキングに行くのは、「ブロークバックマウンテン」(アン・リー監督)へのオマージュではないのか。
●エリオがおねだりしてオリヴァーの青シャツをもらうのも、「ブロークバックマウンテン」へのオマージュではないのか。
●ハイキングシーンのなかの滝のシーンは、「ブエノスアイレス」(ウォン・カーウェイ監督)へのオマージュではないのか。

 そうそうたるLGBT映画との連想性がいろいろ語られていますね。いずれも、そう言われてみれば確かにそうかもしれないという気がしてきます(もちろん、いずれも私も好きな映画です)。

 私自身は、2019年のフランス映画「燃ゆる女の肖像」との共通点をまっさきに思いました。こちらは18世紀のフランスの孤島を舞台に、女性同士のつかの間の恋を描いた秀作です。成就させることも適わず別れた恋人の姿を、コンサート会場で偶然に見かけるというラストシーンが、「君の名前で僕を呼んで」(略称:CMBYN)のラストと似ているように思えたのです。別れた恋人が遠くから見守るなか、音楽を聴きながら次第に感情が高ぶって嗚咽する女性のアップがやはり延々と続く長回しで捉えられます。

  「燃ゆる女の肖像」 はCMBYNのあとに発表された映画ですので、ひょっとしたらラストの涙のシーンの長回しは、CMBYNを意識していたということもあるかもしれません。私はこの映画をCMBYNよりも先に劇場で見ています。あまりにも深く感動し、映画の作り方に共感を覚えたので、もうこれからは男女のロマンスなんて一本も見られないかもしれないとさえ思ったくらいです。この映画のことも必ずとりあげたいと思っています。

 またカナダの若き精鋭グザヴィエ・ドラン監督は、CMBYNに触発されて「マティアス&マキシマム」をつくったのだと語っていまして、私は先にこのドラン監督の映画を見て感じ入って、監督のインタビューを読んだことから、遅ればせながらCMBYNも見てみたという次第です。かなり遅れてやってきたCMBYNファンなのです。「マティアス&マキシマム」もそのうち採りあげてみたいと思います。