ふたりの女王 メアリーとエリザベス/Mary Queen of Scots

マウンティング女王メアリーVSおひとりさま女王エリザベス。
これまでの歴史解釈を覆す新しいイギリス王朝絵巻。

映画の紹介

 16世紀、王位継承問題と宗教対立に揺れるイギリスで、宿命的なライバルとして対峙しあったスコットランド女王メアリー・スチュアートとイングランド女王エリザベス1世の生き様を、フィクションを混ぜつつ描く歴史絵巻。男たちの権力欲にとりまかれ、容赦のない謀略にまみれながらも、それぞれの矜持を貫いていく二人の女王の姿が、痛々しくもあっぱれ。シアーシャ・ローナンとマーゴット・ロビーの「動」と「静」の演技合戦も見もの。


制作:2018年 アメリカ・イギリス
監督:ジョージー・ルーク
脚本:ボー・ウィリモン
原作:ジョン・ガイ『Queen of Scots: The True Life of Mary Stuart』
キャスト:シアーシャ・ローナン マーゴット・ロビー ジャック・ロウデン 
ガイ・ピアース

映画の見どころ

point 1 断頭台の真っ赤なドレス

 1587年のメアリー・スチュアートの斬首刑の場面から映画が始まります。暗い牢獄から冬の寒空のもとに引き出されたメアリーは黒い喪服のようなドレスを身につけています。その顔は青白く、すでに運命に逆らうことをあきらめたかのように寂然としていますが、スコットランド女王としての威厳を必死で守ろうとしているようにも見えます。ヨーロッパ中に知られていたというその美貌は、死への怖れを乗り超えようとして凄みさえ湛えています。演じるシアーシャ・ローナンのあの燃えるような青い瞳が、画面に焼き付けられるかのように印象的に映し出されます。

 城内の断頭台の前につれてこられたメアリーの両脇に侍女たちが立ち、あっというまに黒いドレスを左右に引いて脱がせます。中からあらわれたのはなんと目にも鮮やかな深紅のドレス。まるで歌舞伎の「引き抜き」のような、一瞬の早がわりです。断頭台の前に集ったイングランドの臣下たちや見物人からどよめきの声があがります。

 メアリーが、黒い衣装の下に赤い衣装を付けて断頭台に臨んだというのは史実です。この赤は殉教者であることを象徴する色で、メアリーの一世一代の死の演出だったとされています。ケイト・ブランシェットがエリザベスを演じた2007年の映画「エリザベス:ゴールデン・エイジ」でもクライマックスのメアリーの処刑シーンでこの赤いドレスが鮮烈な印象を放っていました。ただし、こちらの映画のような衣装の早変わりは史実というよりは、より劇的な効果を狙った映画的なケレン(演出)なのでしょう。

 中野京子さんは『残酷な王と悲しみの女王』という本の中で、このメアリーの深紅のドレスの演出について、「自らの処刑の一部始終を、フランス風の荘厳な儀式として演出しようとした。正統な女王として、またエレガンスの見本として、自分の方がはるかにエリザベスに立ち勝っていることを世界に知らしめて死のうと思った」と解説していました。そういうメアリーであれば、なるほど黒から赤への早変わりというケレンを思いついてもおかしくないかもしれません。

 メアリーが断頭台にその細い首を乗せうつ伏せになると、そこから場面はジャンプカットで、メアリーが舟に乗ってスコットランドに帰還してきた1561年、海岸に上陸するやいなや船酔いでうつ伏せになって嘔吐しかけたその瞬間へと時間を遡ります。まるで死に際のメアリーが波瀾に充ちた生涯を振り返っていくかのように、そこからメアリーがエリザベスの命によって断頭台に送られるにいたった経緯が描かれていくわけです。

その美貌がヨーロッパ中に知られていたメアリー・スチュアート

point 2 メアリーとエリザベスの対比

 メアリー・スチュアートがフランスからスコットランドに帰還したのは18歳のときでした。メアリーはスコットランド女王にして元フランス国王妃でもあるという高貴な身分なのですが、その身分にまったく似つかわしくないような小さな舟で、わずかな数の従者とともにエジンバラ近くの海岸にたどりつきます。そこから馬で移動し、異母兄であるマリ伯から形だけの「歓迎の儀」をもってホルーリー城に迎え入れられます。この一連のシーンによって、メアリーがフランスでもスコットランドでも、すでに歓迎されざる立場となっていることが示されます。

 いったいなぜメアリーはそのような境遇になってしまっているのか。それまでの経緯をざっとかいつまむと、まずメアリーがスコットランド女王に即位したのは0歳のときでした。生まれてまもなく父であるスコットランド王ジェームズ5世が死去したためです。その後、イングランドとの政争に巻き込まれ命からがらフランスに逃れ、15歳でフランス王太子と結婚、ほどなくしてスコットランド女王とフランス王妃という二つの称号を手にいれます。が、世継ぎをつくるいとまもなく病弱な夫が死去してしまい、姑(稀代の悪女とも呼ばれるカトリーヌ・ド・メディシス)との折り合いが悪かったこともあり、再びスコットランドに舞い戻ってくることになったわけでした。

 メアリー帰還のニュースを聞いて、イングランド女王エリザベスとその取り巻きは戦々恐々となります。ただちにメアリーをイングランドの貴族と結婚させコントロール下に置くことを画策しはじめます。じつはメアリーの父ジェームズ5世の祖母はイングランド王の娘、つまりエリザベス1世の父ヘンリー8世の姉であることから、メアリーはスコットランド女王であるだけではなく、イングランド女王にもなりうる継承権をもっているのです。それにひきかえエリザベスは、ヘンリー8世と愛妾アン・ブーリンとのあいだに生まれた子であり、王位継承の正統性という点でメアリーに対して引け目を感じています。

 エリザベスが女王となるまでの足跡もざっとかいつまんでおくと、まず幼少期に、父王ヘンリー8世が男子の王位継承者にこだわるあまり、女子しか生めなかった母のアンを不義の汚名を着せて処刑し、エリザベスの王位継承権を剥奪するという大事件がありました(エリザベスの男性不信の元凶?)。後にいったんは継承権が復活しますが、エリザベスの異母姉にあたるメアリー1世が王位を継ぐと、今度は謀反の罪を着せられてロンドン塔に幽閉されてしまいます。メアリー1世の死去によってエリザベスはようやく女王の座に着くことになったわけですが、その出自をよく思わない反対派からつねに身分を脅かされつづけてきました。

 映画のメアリーとエリザベスは、このような二人が経てきた女王としての宿命や境遇、政治的立場、さらには宗教的立場の違いをふまえ、明確な対比で描かれていました。まずもってメアリーはエリザベスよりも9歳若く、前述したようにヨーロッパ中にその美貌が知れ渡り、さらにフランスの宮廷でセンスに磨きを掛けた華やかな女性です。シアーシャ・ローナンは、世間知らずなほどの率直さと、幼少期から培われた驕慢な女王気質、政争にも負けない強気と才気の持ち主として、いきいきと魅力的に演じていました。

 対するエリザベスは、王位継承権を剥奪されロンドン塔に幽閉されるなど幼少時からさんざんな目に遭ってきた苦労人です。戦争を好まず、無益な政争も嫌っています。が、国を平定し守るためには汚れ仕事が必要なことも理解していて、側近の男たちの忠誠心や能力を冷静に見極めながら、慎重に行動をします。古典的なほどの「ハリウッド女優顔」の持ち主マーゴット・ロビーが、内向的で思慮深い女王ぶりを好演していました。

 一言でいうなら、演出も演技も衣装も、メアリーの「動」に対してエリザベスの「静」、メアリーの「彩色」に対してエリザベスは「無彩色」、メアリーの「執心」に対してエリザベスの「諦念」というようにわかりやすい対比構造になっています。ただし、地味顔清純派のシアーシャ・ローナンがメアリーを、派手顔妖艶派のマーゴット・ロビーがエリザベスを演じているのが妙味になっていて、この逆転的な配役のおかげで、二人の女王の複雑な心情や「はかない友情」の行方が見どころとなるような、深みのある映画になっていました。この「逆転」はまた、シアーシャとマーゴットの「演技対決」もいっそう楽しめる設定だったと思います。

王位継承権が奪われたり復活したりしていた10代のエリザベス。

point 3 面倒な宗教対立問題

 女王メアリーがスコットランドで歓迎されていない大きな要因に、カトリックとプロテスタントの宗教対立がありました。メアリーは敬虔なカトリック教徒ですが、フランスにいるあいだにスコットランドではプロテスタントが勢力を拡大しつつあったのです。

 メアリーは帰還して早々に、スコットランド宮廷で臣下たちに「カトリックの女王では不満でしょうね」と嫌みを言いつつ、「宗教の選択は個人の自由にする」という寛容政策を打ち出します。ところがプロテスタント長老派のジョン・ノックスは、カトリックに対する反発とともに(それまでカトリックから迫害を受けて来た立場からすれば当然ですね)、女性への偏見もあらわに、メアリーに対して激しい言葉で楯突きます。メアリーは怒りにまかせてノックスを追放してしまいます。

 このノックス追放があとあとメアリーの立場を危うくしていきます。というのも、スコットランドの国務大臣であるメイトランドも長老派信徒であり、メアリーへの敵愾心を強めていくからです。メイトランドは、各地でメアリー打倒を遊説してまわるノックスと通じながら、メアリーを追い落とす謀略を画策していきます。

 一方、エリザベスが統治するイングランドは英国国教会という独自の派を成立させていました。これはローマ教会と断絶した旧教教会ともいうべきもので、エリザベスの父ヘンリー8世が最初の妻キャサリンを離婚し、エリザベスの母であるアン・ブーリンと結婚するために、ローマ教会から離反して樹立させたものでした(そこまでして結婚したアンを結局斬首刑にしてしまい、その後も次々と妃を乗り換えたり殺したりしてしまうヘンリー8世、かなり残虐非道な王です)。

 ヘンリー8世の後に即位したエドワード6世の代には、大陸で吹き荒れるカトリックとプロテスタントの対立のあおりを受けイングランドでも宗教改革が進みますが、次のメアリー1世は旧教派で、徹底して新教弾圧をします(あまりに過酷な弾圧のためブラディ=流血メアリーとの異名で呼ばれていました)。これに対してエリザベスが新教派だったために、イングランドの新教派のなかでは、エリザベス女王待望の声が次第に高まっていきました。このあたりのことはこの映画では詳しく触れられませんが、やはりケイト・ブランシェットが名演を見せた1998年の第一作目の「エリザベス」ではしっかりと描かれていました。

 エリザベスが即位して最初に手がけたこともこの宗教問題でした。エリザベスは旧教徒も服従しうるような新しい英国国教会をつくりあげるために腐心していきます。そんなエリザベスにとって、カトリックを信仰するメアリー・スチュアートによるイングランド王位継承は、どうしても避けたいことだったわけです。エリザベスの側近たちも、「旧教徒を我が国の王にはしてはならない」と息巻きます。

point 4 女を武器にするメアリー

 メアリーは、スコットランド帰還後ほどなくして、エリザベスに親書を送ります。「同じ島に生きる女王同士として平和な関係を築きましょう」「両国の条約は臣下の男たちではなく女王同士で決めましょう」といった懐柔的な提案をしつつも、「私を(イングランド女王として)後継者に指名すれば、あなたの王位を認めます」と、自らの正統性を盾に、エリザベスに対してあからさまに“マウンティング”してみせます。

 メアリーの手紙には、メアリーの小型の肖像画も添えられていました。エリザベスは大きな鏡で自分の姿を写しメアリーの肖像と見比べながら、「若くて賢くて自信家のようですね。夫えらびには困らないのでしょう」とため息をつきます。

 じつはエリザベスは、メアリーの容貌や教養のことをものすごく気にしていました。これも中野京子さんの『残酷な王と悲しみの王妃』に紹介されていたエピソードですが、エリザベスは自分とメアリーのどちらが美人か、どちらが背が高いか、衣装や宝石はどちらが豪華か、ダンスや楽器の腕前はどうか、語学の才能はどうかというようなことを、スコットランド大使にしつこく聞いて閉口させたそうです。

 メアリーの美貌や才能を気にするエリザベスは、たんに女性として嫉妬していただけではなく、メアリーの女王としての「価値」を品定めもしていたのでしょう。女王が魅力的であればあるほど有利な条件の結婚のチャンスに恵まれ、それが国力の充実にも直結する時代でした。エリザベスはそういう点でもメアリーを警戒し、みずから情報収集しようとしていたのかもしれません。

 メアリーはもちろん自分の女性としての魅力を熟知しています。姉妹のように仲のよい侍女たちとのガールズトークのなかで、夫だったフランス王フランソワとの初夜がうまくいかなかったこと、それきり夫を亡くしてしまったためいまだ「男を知らない」ことを明かすシーンがあります。「男の人を知りたい。でも私は決して所有はされない」と女王としての恋愛観を語るやいなや、生理がきてしまい、侍女たちに経血を洗い流してもらいます。メアリーの生々しい女性性を感じさせる秀逸な場面です。女性であるジョージー・ルーク監督ならではの演出だと思います。

 このメアリーの女性性は、エリザベスを翻弄する武器にもなるのですが、結果的にメアリーの運命を狂わせていく諸刃の剣にもなっていくのです。

point 5 エリザベスの白塗り化粧の秘密

 エリザベスは重臣たちの意見を受け入れ、自分が愛する寵臣ダドリーをメアリーの結婚相手にすべく画策します。が、メアリーはイングランド側の策略をなんなくかわし、大使のランドルフをからかい翻弄するばかり。メアリーのもとに送り込まれたダドリーを前に、正統な王位継承権は自分にあることを述べ立て、「私を継承者にすれば、エリザベスの王位を認める」というあいもかわらず高飛車な主張をして追い返してしまいます。

 一方でメアリーは、エリザベス当人との会合を心待ちにしています。メアリーは一貫して男の重臣たちを信用せず、女性同士なら話が通じるはずだと考えているのです。エリザベスがメアリーの送った親書と肖像画への返礼として、やはり穏やかな調子の親書を送り「二つの国を一つにするための(会談の)場を設けましょう」としたためてあったことに気をよくしています。そこには、メアリーの肖像画よりも何倍も大きなエリザベスの肖像画も添えられていました。若々しく美しいメアリーの垢ぬけた肖像画とは違い、無表情で、ただ仰々しさばかりが目につく、いかにもセンスのない肖像画です。

 いよいよ約束のヨークでの直接会談の日。意気揚々と馬を駆って会談に赴いたメアリーを待ち受けていたのは、エリザベスからの急なキャンセルでした。じつはエリザベスは天然痘にかかり命の危険性にみまわれていたのです。メアリーは侍女の一人をつかって、イングランド大使のランドルフをハニートラップにかけ、エリザベスが隠したがっていた天然痘の情報もダドリーとの恋愛沙汰の情報も手中にします。そしてチャンス到来とばかりに病床のエリザベスに対して、「ご友人のダドリー」との結婚を受け入れる代わりに、自分たちを後継者として認めることを強く促す手紙を送りつけます。

 顔中に膿疱ができ無残な姿となっているエリザベスは、ダドリーとの関係まで知られたことにショックを受けます。愛人と王位の両方を失いかねないという不安で半狂乱になります。このあたり、典型的なハリウッド女優顔のマーゴット・ロビーが膿疱だらけのメイクで熱演していて、かなり見ごたえがあります。

 このように、メアリーはみずからの知略によって、エリザベス側の策略をまんまと見抜き、つねに一枚上手をとっていきます。エリザベスはいろんな意味でメアリーとの「格」の違いを見せつけられるのです。そのうえ天然痘にかかりなんとか一命は取り留めたものの、顔には痘痕(あばた)が残ります。それを隠すために、以降エリザベスは人前に出るときは、今日見られる肖像画に顕著なあの「白塗り」化粧で顔を覆うようになっていくのです。

point 6 男を見る目はなかったメアリー

 類まれな女子力によってエリザベスをやりこめ得意の絶頂にいたメアリーですが、次第にその女子力が仇となっていきます。自分と同じカトリックで、イングランド王家の血筋でもあるダーンリー卿と瞬間沸騰的に恋に落ちてしまうのです(史実ではこのときメアリー23歳、ダーンリー卿は19歳です)。このことがスコットランドとイングランドにさらにさまざまな波紋を起こしていきます。

 出会った日の夜、メアリーの寝所に忍び込んできたダーンリー卿は、メアリーに対して紳士的に接し、なんとオーラルセックスだけで満足させてしまいます。気遣うメアリーに対して「ぼくは(いけなくたって)いいんだ」とさえ答えます。このダーンリー卿の慎み深いふるまいに気をよくしたメアリーはただちに結婚を決意します。心配する側近たちには「ダーンリー卿には王位を狙うような野心はない」と自信ありげに太鼓判を押しさえします。

 メアリーが王家の血筋につながるダーンリー卿と結婚することに、イングランド側は危機感を持ち、すぐに結婚不認可の通達をランドルフ大使に届けさせます。が、メアリーは聞く耳をもちません。「私はエリザベスと違って世継ぎを生める女なのだ」と言い放ち大使を追い返します。それまでメアリーを保護していたマリ伯は、この一件を機にメアリーから離反し、イングランドの協力を得て内乱の準備を着々と進めていきます。長老派のノックスも各地で「偽りの女王を潰せ」と民衆を焚きつけます。

 案の定メアリーの瞬間沸騰的な恋は、婚礼の夜には潰えてしまいます。ダーンリー卿は祝宴の席で酒に酔い潰れてだらしのない振る舞いを見せ、しかもその夜はメアリーの寵臣であるリッチオと床入りしてしまいます。ダーンリー卿が男色家だったことが明るみになるのです。リッチオはイタリア出身の宮廷音楽家だったのですが、メアリーに気に入られ秘書として政務にも携わっていた人物でした。

 ダーンリー卿とリッチオが婚礼の夜に同衾してしまうというのは、この映画が設定したフィクションだと思っていたのですが、映画のプロダクション・ノートによると、少なくとも性的関係があったことは事実だそうです。同性愛者はイギリスの歴代の王のなかにも何人かいたことがわかっていますし、この時代も珍しいことではなかったようです。メアリーとダーンリー卿の息子でのちにイングランド王となるジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)も同性愛者だったと言われています。

 そうでなくとも、ダーンリー卿は見た目だけは麗しい美青年でしたが、中身はなく粗暴で女好き、権力欲だけは一人前というロクでもない青年だったとされています。たとえリッチオとの男色がなかったとしても、早晩メアリーの熱はあっというまに冷めてしまったことでしょう。メアリーは、エリザベスと丁々発止の出し抜き合戦をするだけの知略がありながら、男性を見る目はまったくなかったようです。

ダーンリー卿(ジャック・ロウデン)の表面的な魅力に気を許してしまうメアリー。(公式ホームページより)

point 7 メアリーの妊娠とエリザベスの諦め

 男に関してははずれクジを引いてしまったメアリーですが、マリ伯が仕掛けた内乱をみずから陣頭指揮をとって制圧するなど、あいかわらず難事を見事に切り抜けていきます。

 勝利の夜、メアリーはダーンリー卿に言い寄って、強引なまぐわいを果たします。結婚は失敗しても、世継ぎさえ産めばメアリーの立場は有利になるからです。メアリーの必死の祈りが通じたのか、その一度きりのまぐわいによって、まんまと妊娠することに成功します。すっかり腹ボテとなり、大使のランドルフに「スコットランドとイングランドの世継ぎが生まれます」と告げるメアリーの勝ち誇った顔は、ますます女っぷりもあがって、少々憎々しいほどです。

 エリザベスも、有利な結婚や出産によって立場を安泰させることを側近たちから進言されつづけていました。忠臣ウィリアム・セシルは「そろそろ子どもが産めなくなる歳だ」とまで直截的なことを言ってエリザベスを説得しようとします。でもエリザベスにはもはや政争のための結婚や出産に乗る気はありません。そればかりか「私は男になったのだ」と言い放ち、セシルに「あなたという妻がいれば十分だ」とさえ言います。

 この映画では、エリザベスについて、男たちの飽くなき権力欲の道具にされていくことを警戒する慎重さや賢明さとともに、「女」を武器にして果敢に政争に打ち勝とうとするメアリーに対するコンプレックスも強調して描いていました。メアリーからの露骨な“マウンティング”に対して怒るどころか、「誰を(後継者に)指名しようが、どうせ私たちの死後のことだ」と投げやりなことをつぶやいたり、馬小屋で仔馬に愛情を注ぎながら腹に布をあてて妊婦の影絵をつくって寂しそうに見つめてみたりします。何度も命の危険にさらされながら、男社会で必死に生きてきた“おひとりさま”女王の孤独と悲哀を感じさせるシーンでした。

point 8 エリザベスの「妻」・セシル

 この映画は、メアリーとエリザベスの関係だけではなく、それぞれの重臣たちとの関係性もとても興味深く対比的に描いていました。まとめて言えば、重臣に恵まれなかったメアリーがみずからの知略によって墓穴を掘って自滅していき、それによって重臣に恵まれたエリザベスが世にいう「ゴールデン・エイジ」を確立していく足がかりを得ていくという流れになっています(史実もほぼこの通りだったようです)。

 エリザベス側の重臣の中では、なんといってもエリザベスから「妻」と呼ばれるウィリアム・セシルがひときわ頼もしい名相ぶりを発揮していました。演じるガイ・ピアースは「英国王のスピーチ」では不倫愛を貫くために王位を捨てるエドワード8世を演じていました。そのイメージがどうしても蘇ってしまい、ピアース=セシルにはどことなく「不埒」なイメージもつきまとって少々困りましたが、実際にはセシルは40年にもわたってエリザベスを献身的に支え続けた重臣中の重臣です。

 またケイト・ブランシェットの「エリザベス」では、セシルをリチャード・アッテンボローがまるで「小言じいや」のように演じていたせいで、私の中ではどうしても「おじいさん」というイメージが染みついてしまってましたが、セシルはエリザベスにとって年長のお兄さんくらいの年齢差だったので、むしろこの映画のピアース=セシルのほうが実際のイメージに近いようです。ピアース=セシルはエリザベスとともにだんだん年を取り白髪も増えていきますが、変わらずエリザベスに対して耳の痛いことも言い続けながら、国難に次ぐ国難に対応していきます。まさに二人の関係は“夫唱婦随”のようでした。

40年以上も忠臣であり続けたセシル(ガイ・ピアース)とエリザベス。(公式ホームページより)

 ところで、この映画にはセシルに匹敵するエリザベスの重臣で、メアリー・スチュアートによるエリザベスへの反逆罪を摘発しついに死刑執行にいたらしめた“あの辣腕”は登場しません。イングランドの諜報部門を牛耳って隠然たる力でエリザベス政権を底支えしたフランシス・ウォルシンガムです。映画「エリザベス」でジェフリー・ラッシュが演じ、なんとも不気味な存在感を放っていました。ケイト・ブランシェット演じるエリザベスの高潔な佇まいの影で、みずから築いた諜報網を駆使し、反逆者への拷問や処刑などにも手を下す怪人ぶりがあまりにも強烈でした。

 あのジェフリー=ウォルシンガムの存在感が忘れられない私は、この映画ではウォルシンガムの姿かたちが見えなくとも、エリザベスとセシルの影で暗躍しているに違いないという妄想についつい浸っていたのでした。

まるでエリザベス(中央)の助さん格さんのような、セシル(左側)とウォルシンガム(右側)

point 9 むごすぎるリッチオ惨殺事件

 この映画はケイト・ブランシェットの「エリザベス」ほど、迫害や拷問の陰惨なシーンは出てきませんが、それだけにメアリーの寵臣リッチオの惨殺シーンはそのむごさが際立っていました。

 前述したように、リッチオはメアリーが最も信頼していた秘書役でした。新婚の夫を寝取られたにもかかわらず、リッチオのことはメアリーはまったく非難しません。これはたぶん「同性愛者にも寛容な開けた女王」という現代的イメージを映画的に脚色しているのでしょう。念願の妊娠が叶ってからは、リッチオと侍女たちだけを寝所に招き入れ、ダーンリー卿のことは露骨に遠ざけようとします(史実では、メアリーがダーンリー卿に幻滅したことにより、リッチオを過剰に寵愛するようになったとされています)。

 その裏では、ダーンリー卿の父親レノックス伯とマリ伯、さらに長老派ノックスによる陰謀の連携プレーが着々と進んでいました。彼らは「女王の腹の子の父親はリッチオである」という噂を流布し、「女王の寝室に出入りするカトリックのイタリア男を追放せよ」というキャンペーンを張るのです。そして、メアリーに冷たくされてふてくされているダーンリー卿をして、強引に「女王の不義の罪」を告発する文書に署名させてしまいます。

 メアリーとリッチオ、侍女たちが仲睦まじげにカードゲームに興じていると、レノックス伯をはじめとする宮廷の男たちが大勢で乗り込んできます。このときメアリーは妊娠6ヵ月という身重でした。その目の前で、彼らは次々とリッチオの身体に刃を突き立て、なぶり殺しにしてしまうのです。メアリーは男たちの手で拘束されてしまい、なすすべもありません。レノックス伯に強要されてとどめを刺したのはダーンリー卿です。血みどろのリッチオの体に取りすがって泣き崩れるメアリー。取り囲む男たちに助けを求めるようにその顔を見渡しますが、メアリーに手を差し伸べる者はいません。

 リッチオの死体にはなんと数十カ所もの刺し傷があったそうです。大勢の男たちがおのおの刃をもって代わる代わる一刺しずつしていくという殺し方には、よほどの恨みつらみが込められていたのでしょう。この映画ではなぜリッチオがそこまで酷い殺され方をしたのかやや伝わりにくかったような気もしますが、それほどまでにメアリーによるリッチオへの寵愛が、権力欲が渦巻く男社会の嫉妬と羨望をかきたてていたということらしいです。

ウィリアム・アランによるリッチオ殺害事件を描いた絵画(1830年代)

point 10 「子ども」さえ武器にするメアリー

 リッチオの殺害後、反メアリー派のメイトランドとレノックス伯はメアリーを軟禁し、マリ伯を帰郷させてダーンリー卿を中心とする権力体制の構築を急ぎます。メアリーはすんでのところでなんとか夫(ダーンリー卿)を抱き込み味方につけ、ひそかに二人で城を抜け出し、かねてから献身的にメアリーに仕えていたボスウェル伯のもとに向かいます。ボスウェル伯は反メアリー派をしのぐ軍隊をすでに用意していました。ここでもまたメアリーがきわどいところで先手を打って、身内の反乱をなんとか押さえこんだのです。

 さらにメアリーは驚くべき行動にでます。自分に敵対してきた異母兄のマリ伯に恩赦を与えたばかりか、生まれる子どもにマリ伯と同じ「ジェームズ」の名を授けるつもりだと伝えるのです(メアリーは何が何でも男子を産むつもりでいるわけです)。「私の息子を、そしてあなたの妹である私のことを、どうか愛してほしい」というメアリーの情けある言葉に、マリ伯は泣き崩れます。

 次にはエリザベスに対して、和解を申し出る書簡を送ります。そのなかで、子どもはエリザベスに与えるつもりであると伝え、どうか代母になってほしいと申し出るのです。エリザベスはこのメアリーの提案を受け入れます。さらには、もしエリザベスが子を産めばその子がイングランド王を継承し、産まなければメアリーが産む子が世継ぎとなることを承諾するのです。

 このようにメアリーは自分の結婚とともに、出産ですら、我が子ですら、政局を有利に運ぶための武器にしていきます。けれどもリッチオ亡きあと、一人として信用のおける家臣がいない孤立無援のメアリーにとって、「我が子」こそは唯一残された切り札だったわけです。マリ伯とエリザベスへの提案は、まさに乾坤一擲、ある意味では捨て身の策だったことでしょう。

point 11 3度目の結婚とメアリー悪女説

 メアリーは、難産のすえに、念願の男子を出産します。エリザベスの重臣たちはこのニュースを聞いてまたしても大騒ぎ。セシルはエリザベスにメアリーの申し出を断るように進言しますが、エリザベスは「メアリーは何度も私たちを出し抜いた」と暗に臣下たちの無策を批判しつつ、「いったい私が死んだあとを誰にまかせられるか」と言い放ちます。

 こうしてメアリーの思惑どおりに事が進むかと思いきや、ここでまたしても陰惨な事件が起こります。メイトランドが謀って、夫のダーンリー卿を暗殺してしまうのです。そのうえで、メアリーに懸想していたボスウェル伯を騙して、国王の座を餌にメアリーと強引に結婚させてしまいます。メアリーにとってはこれが3度目の結婚です。たちまち「メアリーは不倫相手と結婚したいがために夫を殺した売女だ」というフェイクニュースが流布され、民衆のあいだで「売女を殺せ」という声が響き渡っていきます。この一連の策略には、メアリーから恩赦を受けたマリ伯も噛んでいました。

 ちなみに、映画ではメアリーはメイトランドと共謀し夫を殺害したボスウェル伯のことを許さず、夫婦の営みの最中も憎しみを込めた目でにらみつけていましたが、実際にはメアリーは夫と違って軍務に長けた勇敢なボスウェル伯に惚れ込み、すでに不倫関係にあったようです(ボスウェルの子も宿しました)。そんなこともあり、当時、ダーンリー卿殺害はボスウェル伯が首謀し、メアリーが共謀したものだという噂が絶えなかったのです。

 もしこれが事実なら、メアリーもまた稀代の悪女ということになってきますし、新聞の三面記事にでも載りそうな茶番劇のようにもなってきますね。後述するようにルーク監督はそういったメアリーの悪女像を払拭したくてこの映画を撮ったと語っています。このあたりはまだまだ歴史的に資料も乏しく諸説があるようですが、たとえフィクションであったとしても私はこのルーク監督がつくりあげたメアリー像こそ事実であったと信じたい、信じてあげたいです。そういう気持ちになるほど、シアーシャ・ローナン演じるメアリーは女性の強さと脆さ、高潔さと浅はかさ、「知」と「情」のアンバランスをリアルに体現していて、社会に揉まれていくつものロールをこなさなければならない現代女性の共感を掴むような女王像をつくりあげていたと思います。

point 12 布で仕切られた“幻の会談”

 メイトランドとマリ伯から王位を譲ることを強要され、ついに万策尽きたメアリーはひそかにスコットランドを脱出し、エリザベスに助けを求めます。「この気持ちがわかるのはもう一人の女王だけ」とつぶやくメアリーの顔にはただならぬ悲壮感。

 こうしていよいよメアリーは、ロンドン郊外の隠れ家で、エリザベスと対面します。この対面の場面こそは本作のいちばんのクライマックスであり見どころ、そして完全なるフィクションです。史実では二人は、この映画が描いていた以上に、互いを「お姉さま」「妹よ」と呼び合う厖大な数の書簡をやりとりしていたようですが、一度も対面することはなかったとされています。

 この“幻の会談”のために用意されたのは、高い天井から薄布が何本も吊るされた納屋のような家屋です(染織の作業のための小屋でしょうか)。ようやく相まみえたメアリーとエリザベスは、何本もの薄布に遮られ、最初は互いの姿もよく見ることができません。そればかりかエリザベスは「これは極秘の会見であり、口外したら謀反とみなす」と初っ端に冷厳な言葉を発します。メアリーが「顔を見せてください」と懇願しても、なかなか応じようとしません。どうやらこの薄布の納屋はエリザベス側が、互いの姿を見ずにすむように、というかメアリーに顔を見せずにすむように設定したようなのです。

 なんとかエリザベスを懐柔し手を組もうと必死なメアリーは、二人を隔てる布を払い落としてついにエリザベスと対面します。真っ赤なカツラをつけ、あばたを隠すために顔を白塗りした、どこか道化じみて見える生(なま)エリザベスに、メアリーは衝撃を受けます。エリザベスは冷たい言葉とは裏腹に、哀しみに充ちた表情をしています。エリザベスにとってもメアリーは女王の孤独と痛苦を唯一わかちあえる存在なはずですが、どうしても並び立つことは許されない存在でもあるのです。血にまみれた宗教対立時代を生き延びてきたエリザベスにとって、カトリック信者であるメアリーと手を携えることは、イングランドの安泰のためにも受け入れがたい話だったでしょう。

 メアリーも涙ぐみながら、同じ主張を繰り返します。エリザベスは「身の安全だけは保障します」と言って、それ以上のことは取り合おうとしません。そして「あなたの心は男たちより温かいはず」と言うメアリーに「私は男です。王座がそうさせたのです」と言い放ちます。メアリーは一転し、「私を何度も陥れようとしたくせに」とエリザベスを責め始め、「私こそは正統な後継者です」とまた例のマウンティング癖を持ち出してしまいます。

 エリザベスはここで真っ赤なカツラを自分の手で取り外し、病気のために髪が抜け落ちたさらに痛々しい姿をメアリーに見せながら、長いあいだ自分がメアリーに対してコンプレックスを抱いていたことを告白します。そうして、「けれどももう私は妬まない。あなたの美点があなたを失脚させたのだから」と、メアリーにトドメの一言を刺すのです。

 最後にエリザベスが「あなたが謀反を起こさないかぎりは、安全に暮らせます」と念を押します。メアリーの答えは「私がもし謀反を起こすとすれば、それはあなたが仕掛けたからです。そのときあなたは妹を殺すのです」という気丈なもの。互いに怒りと哀しみで潤んだ目でにらみ合い、息が詰まるほどの緊迫感で演じられた“幻の会談”は物別れに終わります。

 互いの言葉が互いを傷つけあっていくようなメアリーとエリザベスの心理対決であり、本当に見事なシアーシャとマーゴットの演技対決でもありました。思えばこれは、二人の主演女優が顔を合わせて演じた唯一の場面でもあったわけです。二人の気迫あふれる演技には、そのことも大いに関係していたことでしょう。

point 13 何がメアリーに起こったのか

 映画はここで、冒頭のメアリーの処刑シーンに戻ります。二人の“幻の会談”から処刑までは18年の歳月が流れていますが、そのあいだに何があったのかは説明されません。ただ、エリザベスがメアリーに当てた書簡を朗読する声によって、メアリーの謀反の証拠があがってしまったこと、そのため約束どおりにエリザベスが死刑宣告への署名をせざるを得なかったことが語られます。

 すべてを王位に捧げ、ついに結婚することなく「処女王」を貫いたエリザベスはこのとき50代半ば。「もはや私は別人のように老いてしまった」と嘆きつつ、25年前に肖像画で見たときのメアリーの面影を偲びます。「私が愛し、憧れた、若く激しい女王として、どうか私に憐れみを」と、心情あふれる言葉をメアリーに送ります。

 メアリーは黒いドレスを真っ赤に早変わりしてみせ、断頭台にのぼり、すでにスコットランド王として立っていた一人息子のジェームズ6世に向けて「あなたが二つの国を一つにする日を、天国から見守りましょう」「我がおわりに、我がはじまりあり」と語り掛けながら、散っていくのです。

 メアリーはエリザベスの保護下で、18年のあいだ、ごく緩い軟禁状態に置かれていました。生活上の不自由はなく(フランスからもイングランドからも年金が与えられました)、それまでの政争の日々に比べれば穏やかな暮らしが約束されていたようなものでした。が、自分の正統性を主張する負けん気はずっと変わらなかったようで、たびたびエリザベスに盾突く陰謀にも加担したとされています。ついにカトリック教徒によるエリザベス暗殺事件に関与したという証拠があがり、死刑を宣告されるにいたったのです。

幽閉中のメアリー・スチュアート(1578年)。

 映画「エリザベス:ゴールデン・エイジ」では、メアリーはエリザベスの廃位を目論むカトリック側とたびたび密書を交わしていたこと、それがすべてジェフリー・ラッシュ演じる辣腕ウォルシンガムが張りめぐらした情報網にひっかかっていたこと、じつは決定的な謀反の証拠があがるまでメアリーは泳がされていたらしいことなどが描かれていました。やはり、恐るべし、ウォルシンガム。恐るべし、ジェフリー・ラッシュ。

 「ゴールデン・エイジ」でも本作でも、エリザベスがメアリーの死刑執行状に署名することをかなり躊躇していた様子が描かれていました。実際にも、エリザベスはメアリーが罪状を認めれば極刑を免れさせようと考えていたようです。そこにはもちろん政治的な判断があったはずで、事実君主であるメアリーの処刑はカトリックをはじめ、各国の非難を浴びることになりました。きっとエリザベスは冷静に、メアリーを処刑するリスクと処刑しないリスクとを天秤にかけていたのではないかとも考えられます。

 それでも、メアリーの処刑によってエリザベスの地位が揺るぎないものになったことは間違いありません。そしてまたメアリーが望んでいたとおり、エリザベスの死後は、メアリーが産んだ一人息子のジェームズがイングランドとスコットランドの両国を治める初めての王となっていきます。

 メアリーもエリザベスも、真に望むことは国の安定であったはずですが、それは二人の死後まで叶えられることはありませんでした。二人が生きてこの世にある限り、決してその望みをかなえることが許されなかったわけです。なんとも過酷で数奇な運命に翻弄された二人の生きざまが胸に迫ってくる、ほんとうに見ごたえある映画でした。

メアリー処刑の翌年の1588年、スペインの無敵艦隊を破り、
いよいよ「ゴールデンエイジ」を迎えていくころのエリザベス。

私ごとですが

 本稿では、たびたび取り上げた中野京子さんの『残酷な王と悲しみの女王』をはじめ、エリザベス1世の評伝(青木道彦『エリザベスⅠ世』など)、ネットで読めるいくつかの資料を参照しながら、映画の筋立とともに、「史実」ではどうなっていたかについても調べたことを挟んでみました。が、正直なところいったい何が「史実」なのかは、資料を読めば読むほどよくわからなくなりました。

 ジョージー・ルーク監督はインタビューのなかで、そもそもこれまで語られてきたメアリー像はエリザベスの重臣セシルによるフェイクニュースが流布された結果つくられてきたものであり、メアリーが感情的で気の多い女性だったというのは完全に作り話だったと語っています。この映画の原作を書いた歴史学者のジョン・ガイは、歴史資料を見直しそれらのフェイクを剥がして、いままで誤解されてきたメアリー像を正そうとしたのだそうです。ルーク監督は、これこそ現代に通じる女性の物語としても最高にタイムリーで正確なテキストだと感じたと語っています。

 この新しいメアリー像を表現するには、なんといっても演じる女優の存在感と演技力が不可欠だったと思いますが、シアーシャ・ローナンはまさに適任でした。これまで言われてきたような悪女ではなく、かといって聖女でもない、若さと美貌を武器にしながら気丈に政争に立ち向かっていくメアリーを、全身全霊で演じていました。一見古風な地味顔なのに、青い目だけをメラメラと燃やすような繊細な演技を、いったいシアーシャ以外の誰ができることでしょう。

 相対するエリザベスを演じたマーゴット・ロビーは、最初はオファーに怖気づいて断ってしまったそうですが、最終的にルーク監督からの熱烈なラブコールに応じるかたちで承諾したそうです。「知」と「情」のあいだで揺れ動くエリザベスの複雑な心情をやはり見事に表現していました。ルーク監督の狙いはこの二人をキャスティングできたことで、半分以上は成就されたといっても過言ではないと思います。

 二人は、国家と宗教、権力と権威のあいだで、また隙あらば女性を暴力によって抑圧しようとする男社会のなかで、女王としてのプライドと使命感をもって、ときには非情な決断をしながらも懸命に生きました。メアリーはマウンティング女王、エリザベスはおひとりさま女王。この、悩める現代女性にも通じるようなそれぞれの強烈なクセや欠点も含めて、私にはどちらも共感できる魅力ある女王でした。