サスペリア/SUSPIRIA

一人で見ちゃいけないほど怖い映画なのに、
多重な仕掛けの読み解きにやみつきになってしまう

映画の紹介

 今なお“恐怖映画”の金字塔と呼ばれる「サスペリア」を、「君の名前で僕を呼んで」で世界的評価を獲得したルカ・グァダニーノ監督がリメイク。舞台をオリジナルが公開された1977年のベルリンに設定しなおし、第三帝国(ナチス)の記憶とドイツ赤軍によるテロ事件、さらには「カルト」をめぐる心理学的解釈も交えることで、魔女たちの儀式や狂宴というおぞましいオリジナルの世界観を換骨奪胎し、深淵で重層的なグァダニーノ的映画美に昇華した異色の傑作。

原題:SUSPIRIA
制作:アメリカ、イタリア 2018年
原作(オリジナル脚本):ダリオ・アルジェント、ダリア・ニコロディ
監督:ルカ・グァダニーノ
脚本:デヴィッド・カイガニック
キャスト:ダコタ・ジョンソン、ティルダ・スウィントン、ミア・ゴス、クロエ・グレース・モレッツ

いきなり私ごとですが

 私は、ホラーであれオカルトであれスプラッターであれ、恐怖映画というものがとにかく苦手です。幼少時に恐怖漫画を読んで長いあいだ寝付きが悪くなってしまってからというもの、そういうものには一切近寄らないようにしてきました。

 これまで全編をしっかり見た恐怖映画といえば、キューブリック監督の「シャイニング」と、ニコラス・ローグ監督の「赤い影」くらいです。二作とも映画史に残る名作とされてますし、監督への興味からどうしても見なければと思って見ました。そういうことでもない限りは、みずから恐怖映画に手を出すことはまずありません。

 そんな私にとって、ダリオ・アルジェント監督の「サスペリア」は、「エクソシスト」「オーメン」とともに、テレビに流れる宣伝や映画雑誌の記事だけで恐怖心を植え付けられてしまった鬼門映画のひとつです(すべて1970年代の映画です)。とくに「サスペリア」の「決して一人ではみないでください」というあのキャッチコピーとテーマ音楽は強烈で、見てもいないのにトラウマになってしまった映画なのでした。

 ルカ・グァダニーノ監督がリメイクした「サスペリア」も、本来なら私は絶対に手を出しません。ところが「君の名前で僕を呼んで」を見てすっかり監督の映画術に心酔してしまった私は、監督のインタビュー記事などをネットで漁るうちに、ついつい「サスペリア」に関する記事も目にしてしまうようになりました。監督にとってアルジェント版「サスペリア」との出会いこそは、映画監督としてのアイデンティティを形成する原体験になっていたという話を読んで、グァダニーノ版の「サスペリア」だけでもどうしても見てみたい、見なければと思うようになったのです。

 意を決して、まずはAmazonプライムで「レンタル」してiPadの小さな画面で見てみました(小さい画面なら怖さも軽減されると考えたのでした)。身の毛のよだつシーンも、寝付きが悪くなるシーンもいくつかありましたが、それ以上に、重層的で緻密な世界観やストーリー展開、迫力あるダンスシーンなどにすっかり引き込まれました。

 一度見ただけではすべてを捉えきれないほど、歴史的背景や心理学的要素、またオカルティックな暗示や象徴性が多重に込められているので、もう一度、今度はもう少し大きなテレビ画面で、じっくりと画面のディテールも味わいました。そのうえで、この映画の構造や各シーンの意図について考察してみました。次から次へと謎解きをしながら、自分なりの仮説をたてていくおもしろさにはまっていきました。

 ざっとネットで見たところ、私と同じように本来恐怖映画は苦手なのに、この映画にかぎっては読み解きに夢中になるあまりやみつきになってしまったという人が少なくないようです。そのなかには、グァダニーノ版はオリジナルへのオマージュは捧げながらも、まったく別物としてつくられた映画であり、オリジナルを知らなくても十分に堪能できるという意見も散見できました。

 本来恐怖映画が苦手である私は、アルジェント監督の「サスペリア」はいまさら見るつもりはありません。それとの比較はあまり気にすることなく、グァダニーノ版のストーリーや設定、監督の演出や意図などについて私自身が考え込んだことなどを、以下「見どころ」としてまとめてみます。

映画の見どころ

point 1 いきなりのタネあかし

 オリジナル「サスペリア」では、舞台となるバレエ学校が魔女の巣窟であることは、ストーリー展開のなかで次第に明かされていくらしいのですが、驚いたことにグァダニーノ版では、映画の冒頭でほとんどのことを明かしてしまいます。

 グァダニーノ版では、舞台がバレエ学校からモダンダンスの舞踊団(マルコス・ダンス・カンパニー)に変更されています。その舞踊団の秘密を知ってしまったダンサーのパトリシアが、錯乱状態となって精神医学者のクレンペラー博士のオフィスを訪ねるところから物語が始まります。

 パトリシアは博士に「あいつらは魔女」「マルコスを生かしつづけるために」「次にサラが狙われる」といったことを脈絡なく言葉にし、さらには「心で会話する術を教えられた」とか「マルコスが私の中に入ろうとしている」などと口走ります。クレンペラー博士にとっては、パトリシアの言葉は精神錯乱による妄言としか考えられませんが、ここでパトリシアが語ることはすべてそのあとに展開していくストーリーの要訣であり、スージーが体験していくことの前触れになっています。

 映画の冒頭でここまでタネ明かしてしまうのはいったいなぜなのか。ひとつには、この映画はオリジナル版の世界観を踏襲したものであるということを、観客に対して早々に明示する意図があるのでしょう。それと同時に、グァダニーノ版が魔女たちの正体を冒頭で明かしても平気なくらいの、ギョッとするような新しい「謎解き」を用意しているのだということも予告しているように思います。

 つまり、冒頭のタネ明かしは、グァダニーノ監督によるオリジナルへのリスペクトの表明であると同時に、オリジナル版を知る人への挑戦状にもなっているのではないでしょうか。

point 2 ドイツの秋とベルリンの壁

 映画のストーリーにずっと随伴するかのように、1977年のドイツを震撼させた赤軍派によるテロ事件の経緯が紹介されていきます。反帝国主義とマルクス主義による世界革命を掲げて西ドイツで生まれた赤軍派は、この年にドイツ経営者連盟会長の誘拐(元ナチス将校であった)、ルフトハンザ機ハイジャックなどの暴力事件を立て続けに起こし、のちにこれらが「ドイツの秋」と呼ばれるようになりました。

 一歩舞踊団の建物から外に出ると、空港でもカフェでも、クレンペラー博士のオフィスでも、テレビやラジオを通じて赤軍派の起こした事件が時々刻々と事態を悪化させている様子が伝えられます。クレンペラー博士に助けを求めたパトリシアも、じつは赤軍派の活動にシンパシーをもっていた女性です。そのために後に魔女たちに幽閉されたときに、「テロ活動のために舞踊団を脱退した」という虚偽の報告がなされてしまいます。

 赤軍派のようなテロ組織を生み出した一つの要因が、ドイツの分断であり、ベルリンの壁でした。じつは赤軍派は東ドイツの秘密警察シュタージとつながっていたことが、いまでは明らかになっています。映画の舞台となるマルコス舞踊団の建物は、大変象徴的なことに、その分断の象徴であるベルリンの壁に面しています。舞踊団の玄関を出ると、すぐ目の前が「壁」なのです。

 いくらイデオロギーの違う世界を壁で分断して排除し、内側の同質性を守っていこうとしても、やがて内側から新たな「壁」が生まれて混乱と葛藤と次なる排除が起こっていく。映画の舞台となるマルコス舞踊団もまさに、ナチスの時代を耐えて生き延びてきた魔女たちが守り続ける閉鎖社会です。そこにはドイツに起こっている出来事さながらの、深刻な分断が起こりつつあることが、だんだん明らかになっていきます。

point 3 ダンスシーンの迫力

 主人公である若きダンサーのスージーは、「ドイツの秋」の喧噪のさなかに、舞踊団のオーディションを受けるためにアメリカから西ベルリンにやってきます。オーディションではすばらしい踊りを披露し、指導者たち(いずれも「魔女」)を瞠目させ、スージーが「目標」としてきた振付師のマダム・ブランの関心を惹くことに成功します。

 スージーを演じるダコタ・ジョンソンは、「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」シリーズの拘束体当たり演技で注目されましたが、グァダニーノ監督の「胸騒ぎのシチリア」を見たとき、「心ここにあらず」なアンニュイな表情が魅惑的な女優だと思ったものでした。本作のために数ヶ月にわたるダンスのレッスンを受けたそうで、目を離せなくなるような渾身のダンスを披露しています。

 ブランを演じるティルダ・スウィントンは、デレク・ジャーマンのミューズとして知られています。グァダニーノ監督とも何度も組み(「胸騒ぎのシチリア」もそのひとつ)、本作の企画にも早くからかかわっていたそうです。私は、キアヌ・リーブスが悪魔払いを演じた「コンスタンティン」という映画で堕天使を演じていたのにすっかり魅了されて以来、ずっと気にしている女優です。すらりとした長身と知的な面立ちが、両性具有的なキャラクターにぴったりはまっていました。

 マダム・ブランは、圧倒的なカリスマ性をもったダンサーであり振付師であり「魔女」です。長い髪をひとつに束ね、つねに黒い衣装に身を包み、化粧っ気のない顔で、ひっきりなしにタバコを吸っています。その姿はピナ・バウシュを彷彿とさせます。実際にもティルダは、ドイツのダンス界に革命を起こした「ノイエ・タンツ」の創始者マリー・ヴィグマンとともに、ピナ・バウシュのイメージを取り入れて役作りをしたそうです。

 このダコタ・ジョンソン=スージーとティルダ・スウィントン=マダム・ブランを中心に描かれるマルコス舞踊団のダンスシーンは、どれもこれも迫力があって見応えがあります。ときに無音で、また音楽をつかってもごく静かな音のなかで、ダンサーたちの激しい息づかいや動作音、床を踏みしめジャンプする音などが荒々しく迫ってくるようなダンスです。主要なキャスト以外の団員たちはプロのダンサーたちで構成されているそうです。

 物語の中盤、マダム・ブランがスージーにジャンプの特訓をしながら、「舞踊はもう、美しさと陽気には戻れない。今は美しいものをぶち壊さなければ」と説くシーンがあります。これはまさにノイエ・タンツ以来のモダンダンスが目指してきた方向性であり、歴史的につねに権力者の慰み者にされてきたバレエダンサーたちが、真の「飛翔」と「自由」を手に入れるために地を這うような努力を重ねて獲得していった、新しい舞踊芸術の有り様をさしているのだろうと思います。

 オリジナルのクラシックバレエの学校(しかも男女共学)という設定を、女性だけのモダンダンスのプロ集団に変更したのはグァダニーノ監督のアイデアだったようです。後述するように、この映画で監督は「女性の力や意志」というものを前面に出したかったそうです。伝統を踏襲するバレエ学校から、前衛も厭わない創作的な舞踊団に変えたのも、きっとそのためなのでしょう。

point 4 舞踊と魔術の二重構造

 スージーの入団と相前後して舞踊団の指導者・管理者たちは代表者を決める「選挙」を行います(投票は無言のまま、「心」で交し合いをします)。結果、マルコスが再任されますが、舞踊団がマルコス派とブラン派に内部分裂しかかっていることがここで明かされます。マルコスが重病に陥っていて、その「復活」のためにとある「儀式」の再開を焦っていること、それに対してブランは慎重に構えていることなども、だんだん見えてきます。

 舞踊団の「儀式」は二重構造になっているようです。「表」ではブランが制作した「民族」という作品の上演の準備が進んでいます。その作品の主役を担うダンサーが、「裏」にある秘密の儀式でも重要な役割を担うらしいのです。

 じつはパトリシアがその主役を担うはずだったのですが、「失踪」してしまったために(後に儀式が失敗し幽閉されていたことが判明します)、オルガがその役を新たに命じられます。ところがオルガもまた舞踊団のあり方に疑念を抱いていました。マダム・ブランや指導者たちを罵り魔女呼ばわりしたうえで、啖呵を切って出ていこうとします。

 主役を失って困惑している団員たちを尻目に、スージーが「自分が踊る」と名乗り出ます。スージーは舞踊団の「民族」のアメリカ公演を見ていて、ドキュメンタリーも何度も見てきたのですっかり把握しているというのです。こうして、ひとまずテストとしてスージーが「民族」を踊って見せることになります。

 ここでマダム・ブランはスージーの両手両足に手を触れ、「光」を注入します。これはスージーの能力を解き放つための、いわば「白魔術」のようなものらしいです。でもその裏側で、オルガが別な魔女から「黒魔術」を掛けられ、両目から滝のように涙を流しながら、怪しい声に呼び寄せられて全面が鏡張りになっているレッスン室に閉じ込められてしまいます。

 スージーが全身を激しく躍動させながら気迫の籠もったダンスを披露すると、恐ろしいことに、それに合わせて鏡の部屋のオルガの顔や体がひどくゆがめられ、鏡や床に叩きつけられます。スージーが両手をキリキリと揉み込むような仕草をすると、オルガの手足がありえない方向にねじ曲げられていきます。

 このスージーのソロダンスとオルガの拷問が同時進行していくところは、本作のなかでももっとも衝撃的です。目を背けたくなります。でもじつはオルガを演じているのはロシアのプロのダンサーで、すぐれた身体能力を駆使してこのシーンに臨んだのだそうです。それを知ると、超絶的にダークなシーンなのに、斬新な前衛ダンスのようにも見えてくるから不思議です。二度目の鑑賞時には、「すごい運動神経かも」などと感心しながら、けっこう食い入るように見てしまいました。

 ついにスージーは踊りに没入しすぎて虚脱状態に陥り倒れ込みます。そのときにはオルガは手足が折りたたまれて虫の息です。やがて、四人の魔女たちが鏡の部屋に入ってきて、瀕死のオルガの手足に鋭い金属のフックを突き刺し、ぶら下げてどこかに運び出していきます。ここはダンスによる拷問シーン以上に正視しにくいシーンでしたが、儀式のためにオルガの「内臓」が必要になるため、ボディには傷をつけないようにしていたようです。

 このように、舞踊団の魔術とダンスは不即不離の関係にあって、魔女たちはダンスを介しながら、またダンサーたちの肉体を使いながら黒魔術や白魔術を操っているのです。ちなみに魔女たちがオルガに突き刺したフックも、大変重要な「呪具」のようなものらしいということが後でわかります。

point 5 カルト集団と魔術に関する考察

 パトリシアが残していった日記を読んだクレンペラー博士は、ようやくマルコス舞踊団にひそむおぞましい儀式の存在に気づき、警察にパトリシアの失踪を通報します。ところが、捜査のために舞踊団を訪ねていった刑事たちは、下半身を剥かれて魔女たちにいたぶられたうえ、すっかりマインドコントロールされてしまいます。

 博士は自分で舞踊団を訪れ、パトリシアが日記の中で気遣っていたサラに声を掛けます。サラは新入りのスージーにも親切に接する心優しい女性ですが、舞踊団の広報担当と呼ばれるほど舞踊団を信頼しすっかり心酔しています。カフェで博士から舞踊団の秘密に関する話を聞いても、憮然とするばかり。

 博士は、魔女や魔術に関するパトリシアの言葉についてはあいかわらず妄想であると考えています。魔女も魔術も信じていないのです。魔術というものは、人間が組織的に犯罪を行う手段として利用するものだと考えています。

 博士の魔術についての見解には、精神医療に携わる科学者としての良識だけではなく、ナチスドイツの時代を生き抜いたユダヤ人ならではの思いが反映されているように思います。ナチスも、人心を掌握し熱狂させるため、通過儀礼や祝祭的な行事を利用しました。また巧妙なシンボル操作やメディアによるプロパガンダ、情動的な音楽などによって、国民をしてヒトラーを絶対神のように崇めさせ、アーリア主義にもとづくスローガンに感染させていきました。

 クレンペラー博士はナチスに追われて妻と生き別れになったという傷を背負っています。そのため定期的に東ドイツに残してきた自宅を一人で訪ね、妻との思い出に浸る時間を過ごしています。そんな博士にとって、ナチスこそは史上最悪の「魔術」の使い手だったわけです。パトリシアの妄言のなかに舞踊団の危険性を感じ取り、パトリシアやサラを気遣い舞踊団から逃してやろうとするのも、おそらくそのような考えがあるからでしょう。

 パトリシアの日記には、舞踊団のリーダーであるマルコスとともに、赤軍派の創設者でありリーダーである女性・ウルリケ・マインホフの名前が綴られていました。パトリシアにとってダンスと政治活動はどちらも同じように重要だったようです。博士はサラに対して、舞踊団と革命組織の構造が非常に似ていること、どちらも人に妄想を抱かせ支配するということを語り、パトリシアの妄想は舞踊団の「陰謀」に対する抵抗だったのではないかとも語ります。

point 6 三人のアンチキリスト・マザー

 クレンペラー博士から舞踊団の秘密にかかわる話を聞いたサラは、こっそり建物の中を嗅ぎ回って、博士から聞いていた「秘密の部屋」を発見します。そこはオルガが拷問された鏡の部屋の奥にあって、不気味な絵画や置物がたくさん飾られています。人毛を固めたような気持ちの悪い額に縁取られた、若いころのマルコスとブランを描いたものとおぼしき絵画もあります。戸棚のなかには、人体の一部をかたどったような異様なオブジェなどとともに、あの金属フックも置かれていました。

 フックを盗み出したサラは、クレンペラー博士の家を訪ね報告します。ここで初めて博士の口から、パトリシアが日記に綴っていた「三人のマザー」の話が伝えられます。舞踊団が崇めている母神のような存在で、マザー・テネブラルム=暗闇の母、マザー・ラクリマルム=涙の母、そしてマザー・サスピリオルム=嘆きの母の三人です。彼女たちはキリスト教よりも古い時代から存在し、マルコスはそのマザーの一人を名乗っているらしいのです。

 「三人のマザー」というのは、オリジナルの「サスペリア」が元ネタとしていたトマス・ド・クインシーの『深き淵よりの嘆息』に登場する「魔女」たちの名前です。さらにその奥になんらかの神話なり宗教なりの“原型”があるのかどうかはよくわかりませんが、三人のマザーという設定はとても意味深だと思います。おそらく唯一絶対神の宗教であるキリスト教に対抗しうる、また「父と子と精霊」という三位一体にも対抗しうるアンチキリストの強力なシンボルとして、創作されたものなのでしょう。

 もちろんクレンペラー博士はマザーの存在も信じていません。ナチスやカルト教団などと同じように、そのようなシンボルや難解な儀式によって人心を惑わそうとする舞踊団の危険性を改めてサラに説きます。けれども、ここからサラとともにクレンペラー博士もまた、舞踊団の「儀式」に巻き込まれていくことになります。

point 7 ティルダ・スウィントンの一人三役 ★ネタバレ注意

 公式ホームページでは、クレンペラー博士を演じるルッツ・エバードルフについて、実際にも精神分析医であり、幼少時にナチスドイツから逃れて生き延びた経験をしていたことなどを紹介しています。でもこれはまったくのでっち上げ、じつはティルダ・スウィントンが特殊メイクを施して演じていたことがすでに公式に明らかにされています。しかもティルダ・スウィントンはもう一人、終盤にいよいよ登場するおぞましい姿のマルコスも特殊メイクによって演じています。

 つまりこの映画には「三人のマザー」という三位一体のほかにもうひとつ、スウィントンが似ても似つかぬ三つのキャラクターを演じるという「三位一体=一人三役」も仕込まれているわけです。公開当初このことは完全に伏せられることになっていたようです。そう聞くと、あえてスウィントンが一人三役に挑んだことにはいったいどんな意図があったのかが無性に気になります。

 マダム・ブランとマルコスは、秘密の部屋にあった絵画を見る限り、かなり親密な関係だったようです。でもいまは舞踊団の運営や儀式の方法について対立しています。ブランはダンスと儀式を同等のものとして重視しているようですが、マルコスはダンスを儀式の道具としか考えていません。ごく単純化すると、ブランは芸術性を象徴し、マルコスは宗教性を象徴しているといえるでしょう。ではクレンペラー博士は何かといえば、一貫して魔術の存在を否定していることにあらわれているように、「知性」を象徴しているのではないでしょうか。

 この三人はそれぞれの方法でダンサーたちに影響を与えていくという点で、同等に重要な位置づけにあります。つまりブランは「芸術性」によって、マルコスは「宗教性」によって、博士は「知性」によってダンサーたちと関わろうとします。そのために、舞踊団が進めようとする儀式をめぐってさまざまな葛藤と相克が引き起こされます。いわば「三位」のバランスが崩れて不安定になっていくのです。

 実際のところグァダニーノ監督が何を企んだのかはわかりませんが、このスウィントンの一人三役には、そうとう深淵な設定が込められているように思います。

point 8 赤い緊縛衣装と「volk」の踊り

 いよいよブランと団員たちが準備してきた舞踊「民族」が本番を迎えます。舞踊団の建物に観客が次々と訪れ、そのなかにはクレンペラー博士の姿もあります。本番前、主役であるスージーはミス・ヴェンデガストに促され、まっ白なドーランを目元と口元に塗りたくります。眉も太く黒く強調され、明らかに呪術的な儀式のための化粧を思わせます。

 衣装は、真っ赤な紐を結わえてつくられたボンデージファッションふうのかなり大胆なものです。ただし裸体の上にではなく、肌色のアンダーウェアの上に付けるので、さほど煽情的な感じはしません。「エロス」と「タナトス」(死)を象徴するかのような、いかにもアーティスティックな「舞台衣装」といった感じです。

 その赤紐の衣装を付けて踊る本番のシーンこそは、本作最高の見どころです。圧巻です。ダンサーたちの息づかいや皮膚や筋肉が間近に感じられるようなカメラワークによって、たっぷり長尺で見せてくれるので、実際に舞踊公演を至近距離で体験しているような感覚になります。動きに合わせて赤紐が、あたかも流血や血しぶきのように千々に乱れるので、ヴィジュアルもかなりインパクトがあります。

 怖がりの私がこの映画を見る気になったのは、監督がグァダニーノだからということ以外に、じつはこの赤紐の衣装を付けてポーズをするダンサーたちの宣伝写真に無性に惹きつけられたからという理由もありました。監督はこの衣装について、SMファッションや荒木経惟の緊縛写真を参考にしたと語っています。確かに官能的な要素もありますが、実際にダンスシーンを見てみると、この衣装はエロティシズムよりも、やはり血液や流血などのイメージを強く感じさせます。

 舞踊のタイトル「民族」は、映画のなかではドイツ語の「volk」という言葉であらわされているようです。「volk」は辞書的によると「民族、国民、人民、民」などをあらわす言葉ですが、この映画に限っては、この言葉がそのなかのいずれを意図しているのか、慎重に検討すべきことのように思いました。

 日本語版字幕どおりに「民族」とするなら、いかにもナチスのアーリア民族主義などを彷彿とさせる言葉となります。もしそうなら、マダム・ブランはこの踊りに、「民族主義」によって痛めつけられた人びとの怨嗟や嘆きを込めたかったのではないか、赤紐の衣装はまさに「流血」の痛みをあらわしているのではないか、というふうに考えたくなります。

 「国民」とするなら、ベルリンの壁が引き裂いてしまった東西ドイツが再び一つになることを祈念しているかのような意味合いを感じます。壁が崩壊し東西統一を成し遂げたドイツで謳われた「Wir sind das Volk!」の「Volk」と同じです。でもこれはもっともありえなさそうな解釈です。

 個人的には「民」くらいの意味にしておきたいという気がします。民族主義やナショナリズムといったイデオロギーに染まっていない、むしろVolkの原義の「下層民衆」とか、folkloreやfolk songの「fork」とかに近いニュアンスです。この場合は、赤紐衣装は、土地とつながりながら営まれてきた「生命」そのものの象徴というふうにも言えそうです。

 マダム・ブランには、「子宮を開いて国に奉仕せよ」というナチスに対抗し、自分たちの「共同体」と「芸術」を守り切ったという逸話があります。映画の序盤で、まだ舞踊団に心酔していたサラがスージーにそのように語るシーンがあります。そこからすると作品「volk」は、まさにひとつのvolkとしての自分たちが、心血を注いで守り抜いた世界観を表現したものというふうにも言えるかもしれません。

 といいつつ、これらはすべて舞踊団が営む「表」の世界の話です。「民族」の本番中、「裏」ではやっぱりおぞましく残酷な出来事が進行しているのです。この「表」と「裏」を合わせ読みすると、マダム・ブランの意図はどうであれ、赤紐の衣装はその後にさらに展開していく血の惨劇を暗示するものであり、その惨劇において「生け贄」とされていくダンサーたち「捕らわれ」の状態を象徴するものだったというふうにも言えるでしょう。

point 9 スージーが盗んだもの ★ネタバレ

 舞踊団への疑念を抱き始めたサラは、本番直前のどさくさにまぎれて、再びあの「秘密の部屋」に侵入します(本番用の赤紐衣装を身に付けています)。そこでついに、全身がむごたらしく爛れ変わり果てた姿のパトリシアを発見します。さらに手足のない女性が部屋の隅から這い出してきたり(オルガ?)、姿はよく見えませんが暗がりからうめき声が聞こえてきたりします。このへんも、怖がりにはかなりきついシーンです。

 サラはほうほうの体で部屋を飛び出しますが、廊下に突如出現した孔に足を踏み入れてしまい、骨が皮膚を突き破るほどひどい骨折をします。オルガの拷問シーン同様、「表」の躍動的なダンスと「裏」のサラの阿鼻叫喚がなんとも恐ろしい形でシンクロします。やがて動けなくなったサラを魔女たちが取り囲み、手かざしによってサラの傷を「修復」し、催眠術らしきものをかけて本番中の「民族」の踊りに参加させてしまいます。

 そこまで、「民族」は直前に行方不明になったサラを欠いた状態で進んでいたわけです。戻ってきたサラは、目が煌々と光り異様な雰囲気を発しています。スージーは見事に主役を張って踊っていますが、スージーの異変に気づいているようです。いよいよクライマックスを迎えるかと思ったところで、それまでキレキレのダンスを見せていたサラが倒れ込んで骨折の痛みに耐えかねて叫び始めます。ここで「民族」は中断されてしまいます。

 「民族」を踊るホールの床には、「魔女たち」の手によって魔法円(魔法陣)がメタリックなテープで描かれています。本番がはじまるときには、その魔法円を取り囲んで、指導陣もそれぞれ「所定」の位置についていました。「民族」はマダム・ブランの畢生の作品であるだけではなく、やはり「魔女たち」の儀式的な意味合いをもったものなのです。それだけに、サラがいないまま本番が始まり、魔術をかけて戻したものの、突然魔術が解かれたかのように倒れ込んでしまったという一連の出来事は、魔女たちには想定外だったはずです。

 その夜、もうすっかりブランと心の声で話をする術を体得しているスージーが、「逸脱してごめんなさい」とブランに謝ります。ブランは「二度としないで」と言います。このやりとりから、スージーがダンスによってあまりにも力を増幅させてしまい、サラに掛けられた魔術をも打ち砕いてしまったらしい、ということがわかります。

 おもしろいことに、このブランとの無言の対話のとき、スージーはサラの身につけていたガウンを横取りして羽織っています(日本のキモノです)。その前にもスージーがサラとともに忍び込んだ舞踊団の事務所の引き出しから何かをこっそり盗み出すシーンが出てきます。冒頭でベルリンの駅にやってきたスージーがメノナイト教会の封筒に入ったお金を取り出すシーンがあるのですが、これもスージーが教会の献金か何かを盗んできたことをあらわしていたようです。

 このようにスージーは自分の目的を達成するためには、平気で「盗み」をはたらく女性として描かれています。ひょっとしたらスージーは「表」の舞踊の主役を勝ち取っただけではなく、サラに当てられていた「裏」の「儀式」の役割も盗み取ろうとしていたのではないでしょうか。しかもそれこそは、ブランがもっとも阻止したかったことなのです。

 マルコスとマルコス派の「魔女たち」にとって、スージーこそはこのあと行われる「サバト」(魔女の儀式)のための「器」となるべき本命です。でもブランは、スージーに特別な思いをかけているため、なんとかその時を先延ばしにしたがっています。そもそもブランは、マルコスがマザーの一人であるということにも疑いを抱いています。もし本当にマザーなのなら重篤な病に罹ることはないはずだと考えていて、マルコスの代理人のような言動をするミス・タナーと言い争いをするシーンもあります。

 スージーはそんなブランの思いをすっかり理解しているようです。ブランの手を取って自分の頬に当てながら、「私に選択させたくないのね。私を愛しているから」と微笑みます。ブランは「今夜はもう夢を見ないで。私を信頼して」と懇願します。夢を見させることでスージーを「洗脳」してきたはずのブランが、スージーがその「先」に行こうとすることを思いとどまらせようとするのです。

point 10 もうひとつの「三人の母なるもの」 ★ネタバレ

 この映画には原作に根ざした「三人のマザー」が設定されていることは上述しましたが、それとはべつに、スージーに深くかかわる「三人のマザー」の存在とその軋轢も、物語を読み解く重要な要素になっているようです。

 一人はスージーの産みの母親です。じつはこの産みの母が重い病で死の床にあることが、ベルリンでの物語の展開のあいだに挿入されます。スージーはキリスト教メノナイト派の家に生まれ、とりわけ母親によって抑圧的な生き方を強いられてきました。アイロンによって折檻をうける記憶なども、スージーが折々見る悪夢のなかで再現されたりします。

 メノナイト派はもっとも厳格な人たちは文明の利器をいっさい否定して質素な暮らしを貫いているそうです。スージーの母もろくな医療を受けないまま、ひたすら「祈り」だけに頼って死を迎えようとしています。いよいよ最期のときを迎えたとき、牧師に対して「私は娘(スージーのこと)を生んだことで、この世を汚してしまった」と懺悔の言葉を口にします。ここでスージーがもとより異端の者であったことが明かされるのです。

 もう一人の「マザー」は、マダム・ブランです。ブランはスージーの才能に惚れ、自分の持てるもののすべてを与えようとさえするかのようです。この舞踊団では、夜な夜な指導者たちが入団してきたダンサーたちの夢に介入して、魔術的な儀式に順応できるように「洗脳」していくということが行われています(団員たちはそれを「舞踊団スペシャル」と呼び、日常茶飯の笑い話にしています)。スージーが見続ける悪夢も、ブランが見させているものです(血や内臓や毛束といった気味の悪い断片的なイメージが混ざった、かなりおどろおどろしいものです)。

 産みの母の言葉どおりなら、スージーにはもともとブランたちの世界に通じる「魔の力」が備わっていたことになります。でも、おそらくスージーが憧れ目標にしてきたブランの信頼と愛情を受けることでそれが見事に開花し、ついにはブランをさえ凌ぐような力を発揮していくことになったのでしょう。つまり、ブランはスージーにとって「育ての母」と言えると思います。

 さらにもう1人、いよいよ最後に登場するマルコスが三人目の「マザー」です。みずからを母神(母なる魔女)の一人であると名乗り、圧倒的な権力と魔力を駆使し若いダンサーたちを自分の延命のために次々とむさぼって、いままたスージーの体を欲しがっているマルコスは、いわば「偽物の母」ということになるでしょう。

 驚くべきことに、最後の最後に展開する「サバト」を経て、これらのスージーにかかわった「三人の母」は全員死んでいきます(産みの母はサバトによって死ぬわけではないのですが、スージーがアメリカを脱出するために自分の母に呪いをかけた可能性もあると思います)。「三人の母」の死とともに、スージーの「本性」があらわれていくのです。

 あたかもギリシア神話やギリシア悲劇の根幹にある「父殺し」の構図が、「母殺し」に転嫁されて使われているようにも思えます。このあたりのグァダニーノ監督の意図についても、何か語ったり書かれたりしているものがあるなら、ぜひ読んでみたいものです。

 ちなみに映画の最初のスージーの実家のシーンで、「母はあらゆる者の代わりになれる存在であるが、何者も母の代わりにはなれない」という意味深な言葉が書かれた額が出てきます。メノナイト派の家にある額ですので、ここでいう「母」はマリアのことなのでしょうか。そこはよくわかりませんが、そういう形でこの映画が「母」をめぐる物語になっているというヒントを、あらかじめ与えてくれていたようにも思います。

point 11 血の粛清と恍惚のエロス ★ネタバレ

 いよいよマルコスが姿をあらわすサバト(魔女の儀式)です。地下にある怪しげな聖堂(魔堂?)のような空間に、舞踊団の指導陣、管理人、団員たちが裸体になって集っています。奥の間には「三人のマザー」を象徴する白い長大なローブが吊り下げられ、中央にはパトリシア、オルガ、サラがやはり裸体で、魂の抜け殻のように立ちん坊になっています。この三人はいわば生け贄です。例の金属フックで腹を切り裂かれ、内臓を取り出されていくのです。

 儀式の参加者は全員、女性なのですが、一人だけ男性が拉致されて、儀式の「証人」として無理矢理参加させられています。なんとクレンペラー博士です。やはり裸体で、聖堂の階段に身を横たえて、弱々しい声で許しを請うています。

 クレンペラー博士がパトリシアやサラの背後にいたこと、警察に通報したことを魔女たちはすっかりお見通しでした。「民族」の公演でおそろしい顛末を目の当たりにし、あわててパトリシアの荷物やサラの預けたフックを川に捨ててしまったことも知っています。とくにフックを捨てたことが、魔女たちの逆鱗に触れたようです。博士に、生き別れた妻のアンケとの再会を魔術によって幻視させ、まんまと舞踊団に誘い出して拉致してしまったのです。魔女たちは、博士の舞踊団に対する敵対行為ばかりではなく、妻と別れたくないばかりに、ナチスの脅威から妻を逃がさなかったことまでも責め立てます。そのようなクレンペラーの過去の傷のことまで、魔女はすべて握っているのです。

 この世の者とは思えない、全身が腫れ物だらけのモンスターのような姿かたちのマルコスも裸体です。サングラスをかけているのがさらに異様で、滑稽さすら覚えます。その異形のマルコスを囲んで、ミス・タナーとマダム・ブランが対峙しています。ブランだけは真っ赤なローブ状のドレスに身を包んでいます。おそらくダンスの実力者であるブランは、この儀式で「祭司役」を担っているのでしょう。

 ちなみに、このサバトのシーンで初めて、ティルダ・スウィントン演じる三つのキャラクター(ブラン、クレンペラー、マルコス)が一堂に会することになります。

 いよいよ儀式が始まろうとしているとき、そこに来るはずのなかったスージーがあらわれます(ブランが阻止していたのです)。スージーはみずからの意志でこの場に来たことをマルコスに告げます。ここで、スージーを守ろうとするブランと、スージーを「器」にしようとするマルコスのあいだで諍いが置き、なんとマルコスは一撃でブランの首を切り裂き、「処刑」してしまうのです。

 マルコスは続いてスージーに「お前を産んだ女の息の根を止めなければならない。偽りの女を拒め」と迫ります。ところがスージーはマルコスに「あなたは三人の魔女の誰に選ばれたのか」と切り返します。マルコスはたじろいで「マザー・サスペリオルム(嘆きの母)」と答えますが、なんとスージーは「それは私だ」と宣言するのです。そして、真っ黒な「魔物」を呼び出し、マルコスに死の接吻を与えて殺してしまいます。さらに、スージーは「魔物」を使って、選挙のときにマルコスに投票した魔女たちを、一人一人血祭りにあげていきます。

 こうしてサバトは盛大に血しぶきが飛ぶ阿鼻叫喚の地獄絵になっていくのですが、このシーンはまったくリアリティのない、あえていうならアニメチックなほどに大げさで演劇的な描き方がされていて、そのせいか怖がりな私もさほど目を背けなくて済みました。

 マルコス派を血の粛清によって一掃してしまうと、スージーは恍惚とした表情で、「私こそはマザー」と言いながら、みずから胸を掻き開きます。胸の中には、真っ黒で不気味なものが蠢いています。さらにパトリシア、サラ、オルガに望みを聞き、三人が臨む「死」を自らの接吻によって与えてやります。魔女たちを粛正したときのような残酷な死ではなく、静かで安らかな死です。そして、血の海となった聖堂のなかで狂ったように踊り続ける生存者の姿を見て満足げに、「踊り続けるのよ。美しい。美しい」とやはり恍惚の表情でつぶやくのです。

 じつは私は、この恍惚の表情のスージー=ダコタ・ジョンソンに、とてつもなくエロティシズムを感じました。快感すら覚えてしまいました。赤紐のダンスシーンでも、サバトの裸体のダンスでもそういった感覚は一切持たなかったのですが、血みどろの惨劇を経て、胸を掻き開く異形のスージーに、なんともいえない映画的な絶頂感を覚えてしまったのです。

point 12 結局スージーの正体は?

 いったいスージーは本当に「マザー・サスペリオルム」だったのでしょうか。もしそうだとしても、最初からマザーだったのでしょうか。それともどこかでマザーのスピリットが宿ったのでしょうか。

 スージーは舞踊団にやってくる前から、「産みの母」のセリフにあったように、すでになんらかの霊的なもの、もしくは魔的なものが憑いていた異能の女性です。そのことはまた、スージーの居室や夢にしばしばあらわれる、ゆらゆら蠢く光によってもあらわされていました。

 かといって、スージーが最初から「マザー」であったかどうかはどうもわかりません。映画を何度も見直していろんな「サイン」(象徴性)を丹念に読み解いていけば、わかることもあるのかもしれませんが、むしろこの映画はそこを曖昧なままにしておこうとしているように見えます。個人的にはそれでいいんじゃないかとも思います。

 血の粛正から一夜明けた舞踊団では、何事もなかったかのように朝のレッスンがスタートしようとしています。儀式に携ったダンサーたちは記憶を消され(ひどい悪夢を見たという記憶は残されるようです)、稽古場ではマダム・ブランの突然の辞任が告げられます。その様子を、マルコス派の筆頭だったのになぜか粛正を免れたミス・タナーが返り血を浴びた恰好のまま、呆然自失の表情で見ています。地下では目を覆うばかりの惨状を、生存者である魔女たちが死体を集めるなどして、せっせと後片付けしています。ここはちょっとブラックユーモアを感じるシーンです。首を切られて死んだと思われていたブランが不気味に動き出したりもします。

 こうしてブランが疑念を抱いていたマルコス時代は終わり、生存者たちによって新生舞踊団がまた命運をつないでいくということになるのでしょう(マルコス亡きあと、名称も変わるのでしょうか)。

 スージーはすっかり寝込んでいるクレンペラー博士の家を訪ねます。「娘たちがしたことは残念だった」と詫び、妻のアンケの死の様子を語り始めます。収容所で女性の友人とともに悲惨な死を遂げたが決して孤独ではなかった、最後まで博士のことを思いながら逝ったと言って慰めます。さらに慈愛に満ちた表情で、博士を苦しめていたパトリシアとサラの記憶も、妻の記憶も消し去ってしまうのです。

 そのあとに起こることも、ちょっとユーモアを感じます。なんと博士は毎日顔を合わせている家政婦が誰だかもわからなくなっています。ピンポイントで記憶を消すなんて、スージーですらできない話だったのでしょうか。ひょっとしたら他にも消えてしまった記憶があるかもしれません。博士は、憑き物が落ちたかのように見えますが、そのぶん内省的な世界を失った呆け老人になってしまったようにも見えます。

 ラストシーンはさらに意外です。場所は東ドイツのクレンペラー博士の家ですが、時間は現代に進んでいます。そこには新しい家族が住みつき、明るく幸せそうな生活を営んでいるようです。でも家の外壁には、博士と妻が刻んだ愛の印(ハートマークのなかに二人のイニシャル)がまだうっすらと残されています。博士がかつてこの家に戻ってきたときには、まず先にその「印」に手を当てていたものでした。博士は妻の記憶とともに我が家の記憶も失ってしまったのでしょうが、二人の愛の印だけはいつまでも残されていましたとさ・・・・・・といったところでしょうか。

 このように、あれほどの凄惨なシーンのあとに、淡々とした「後始末」のシーンや博士の愛の物語の結末が一抹のユーモアもまじえて描かれて、2時間半もの映画があっさりと終わるわけです。なんという締めくくり方でしょう。果たしてこれは「めでたし、めでたし」なのでしょうか。それとも手の込んだ謎かけなのでしょうか。いろんな疑問が渦巻きますが、きっと観客をそういう気分にさせることが、グァダニーノ監督の最大の狙いだったのでしょう。

 この映画は、冒頭のプロローグからはじまり、全6幕の演劇見立ての構造になっていて、それぞれにタイトルが付けられています。第5幕目まではストーリーも演出も映画的に展開するのですが、第6幕目の儀式のシーンだけは極端で大仰で過剰な演出によって惨劇が描かれていました。きっとここはあえて演劇的な演出を導入したのではないかと思います。グァダニーノ監督は舞台やオペラの演出もするそうなのできっとありうるでしょう。

 また、それに続く「エピローグ」が淡々飄々としているのは、きっと第6幕の演劇的過剰さを「リリース」する狙いがあったのではないでしょうか。観客にふと「我に返る」暇を与えるとでもいいましょうか。そしてそのぶん、マザーを名乗るスージーの正体だけはついぞ謎のままにされ、得体の知れなさだけが残されるというわけです。

 スージーの得体の知れなさは、ポストクレジットシーンでも念押しされています。おそらく舞踊団の建物とベルリンの壁のある通りのどこかだろうと思われますが、スージーがカメラのほうを向いて(目線はカメラの上方です)、何かに手をかざしている様子が映されるのです。いったい何に対して手をかざしているのか、何をやっているのかは不明です。

 ネットを漁ってみると、このポストクレジットシーンについてさまざまな説が飛び交っていて、なかなかおもしろいです。スージーはベルリンの壁を消そうとしているのではないかとか、観客の記憶を消しているのではないかとか、マルコス舞踊団まるごとに何か術をかけたのだとかいった説がありました。でも私は、このシーンの意図はべつなところにあると思います。きっとそういうあれこれの説が飛び交うことだけを狙って挿入されたシーンなのではないでしょうか。

point 13 魔女の家は、愛の家だった?

 改めて全編を振り返ってみて疑問に思うのは、スージーの正体もさることながら、はたしてマルコス舞踊団の女性たちは本当に「魔女」だったのかということです。少なくとも彼女たちは自分たちのことを「魔女」とは名乗っていません。「魔女」というふうにはっきり名指しするのはパトリシアやオルガです。

 また彼女たちの行状には残酷きわまりないものもありますが、共同生活を営みながらそれぞれの役割をもって舞踊団を運営し、ときにバーにいって陽気に飲み食いして騒いだり、(よからぬ計画はあるにしても)団員の若いダンサーたちをかわいがったりしている様子には好ましさも感じました。冒頭でスージーを迎えたミス・タナーが、「私たちは女性の経済的自立を応援している」というようなことを語るときの言葉には真摯さが溢れているように思いました。

 ひょっとしたらマルコス舞踊団は、偽りのマザーによって「暗黒の時代」にあっただけで、もともとは特殊な能力や技能をもっているがゆえに社会から排除されてきたような女性たちが、互いに支え合いながら営んでいく「愛の家」だったかもしれないとすら思います。そういえば、ダンサーたちにやたらとボディタッチする指導陣たちの振る舞いには、ちょっぴりレズビアンぽさも感じました。

 さらにおおもとの話をすれば、「魔女」というのはキリスト教社会がでっちあげたものです。浜本隆志著『魔女とカルトのドイツ史』(この映画をさらに理解するための格好の参考書です)によると、「魔女」と呼ばれた女性には二つのルーツがあり、ひとつは「賢い女」でした。たとえば薬草の知識をもっていて、村の中で病気を治したり産婆をしたり、よろず人生相談を受けていたような女性たちです。もうひとつは社会のアウトサイダーである女性、なんらかの理由で嫌われたり怖れられたりして共同体に受け入れられなかった女性たちです。キリスト教は自分たちの権威と秩序を強固にするために、こういった女性たちを「魔女」と見なして迫害し殺戮したのです。

 マルコス舞踊団の女性たちもまさに特殊な技能をもった「賢い女」たちです。そんな彼女たちを「魔女」と見なす社会の側にも、「魔女狩り」という闇の歴史がつながっているというふうにも言えるのではないでしょうか。

 グァダニーノ監督は、インタビューのなかで、「『サスペリア』は女性の映画であり、女性の中の闇を描いている」と言いつつ、1970年代にヨーロッパに広がったフェミニズムも反映させたと語っています。また、この作品では「典型的な魔女の姿」を描いていますが、「一人一人の女性のキャラクターを見せることで女性に力を与えている、よくある犠牲者として女性を描かないことでフェミニズムをも示している」「彼女たちは複雑で素晴らしくて、心を掻き乱す存在で、力強く、時には邪悪にもなる」というふうにも言っています。

 この映画をジェンダーという視点から捉え直してみると、まだまだ別な見え方があらわれてきそうな気がします。なんといっても、唯一の重要な男性の登場人物であるクレンペラー博士をティルダ・スウィントンに演じさせたことで、この映画はすべてのキャストを女性が占めることになっています。まるで「ダーク宝塚」のような世界を出現させたわけです。

 ゲイであることを公言しているグァダニーノ監督がつくったこの 「ダーク宝塚」 の、とうてい一筋縄ではいかない「女性賛歌」から、もう少しいろんな意味を読み取ってみたい気がします。