パワー・オブ・ザ・ドッグ/The Power of the Dog

西部に生きるマチスモとミソジニーの権化が
一本の葦のような青年に屈していく驚愕の心理劇

映画の紹介

1920年代のアメリカ西部で、大規模な牧場経営に勤しむ兄弟と、町で食堂を営む母とその息子が繰り広げる四つ巴の葛藤と支配と愛憎のドラマ。監督は「ピアノ・レッスン」で国際的評価を得たジェーン・カンピオン。旧態依然としたマチスモ(男性優位主義)が、ノスタルジーと時代変化のはざまで脆く壊れていくようすを、ひりひりする心理劇によって冷徹に描ききる。エキセントリックな天才を演じると敵なしのベネディクト・カンバーバッチが、唯我独尊的で謎めいた兄のフィルを怪演。

パワー・オブ・ザ・ドッグ/The Power of the Dog
制作:2021年 イギリス・オーストラリア・アメリカ・カナダ・ニュージーランド
脚本・監督:ジェーン・カンピオン
原作:トーマス・サヴェージ
キャスト:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー

映画の見どころ

point 1 中年兄弟の微妙な距離感

 大規模な牧場を営むフィルとジョージのバーバンク兄弟が、若いカウボーイたちと牛の大群を移動させている。馬上の兄が弟に「俺たちが先代から引き継いで何年になる?」と得意気な顔で話しかける。弟は曖昧な表情で無言のまま兄の横で馬を進ませる。兄は弟の様子など意にも介さずに、「二人が牧場を継いで25年、1900年からだ」と感慨深げに語る。弟はずっと黙ったまま。何か腹蔵ありげに。

 兄のフィルは大学で古典文学を学びラテン語に通じたインテリで、音楽にも秀で手先が器用な鬼才である。そんな男が牧場経営の仕事に浸りきって満足しているのは、いまは亡きブロンコ・ヘンリーというフィルのメンターであり伝説的カウボーイである人物を、神のように尊崇しているためである。

 フィルは一人で1500頭もの牛の去勢をやってのけるなど、つねに牧場仕事の現場に君臨し、若いカウボーイたちからカリスマ視されている。弟のジョージは、いわゆる「総務担当」とか「経理担当」タイプ、堅実に牧場経営を支えているが、見た目も言動も存在感も薄弱で、つねに兄に付き従う影のような存在として生きてきたようだ。兄とは違って、成績不良で大学をリタイアした傷も持っている。

 兄弟はそろそろ中年にさしかかっているがともに独身で、先代の残した大邸宅で使用人や若いカウボーイたちと寝食をともにしている。それどころか、旅の宿では、狭苦しいひとつベッドに眠るほどの仲だ。まるで子どものころからの関係を、中年になったいまも守りつづけているかのように。けれども兄弟の親密さはどこか不自然で、ぎこちない。フィルはジョージに対して圧倒的な優越感をもち、そのことによってジョージを抑圧しつづけてきたことが言動からありありと伝わってくる。ジョージはジョージで、そんなフィルの強烈な影響圏から逃れたがってもいるようである。

 フィルを演じるのは天才肌の社会病質者役が似合うベネディクト・カンバーバッチ。この映画でも、唯我独尊的でマッチョで謎に満ちたエキセントリックなフィルを怪演し絶賛されている。弟を演じるのは、ジェシー・プレモンス。マット・デイモンとフィリップ・シーモア・ホフマンを足して2で割ったような風貌が、無個性で平凡なジョージになんともぴったり。

 フィルはなぜか風呂に入らないという自己規律に意固地にこだわっている。日々肉体労働に勤しみ汚れ仕事も厭わないので、周囲を辟易とさせる体臭を振りまいている。どうやらジョージはこのフィルの体臭圏内にいることにも耐えがたくなっているようなのだ。実際にカンバーバッチはカンピオン監督からの要請で撮影期間中、風呂に入らないようにしていたという。映画にただよう兄弟の微妙な距離感は、カンバーバッチの体臭的役作りの賜物なのだろう。

point 2 母子の妖しい距離感

 フィルとジョージは、牛を大移動させる大仕事を終えるとビーチという町に行き、酒とディナーで若いカウボーイたちを慰労する。カウボーイたちはこのチャンスに女遊びをすることも黙認されている。ただしバーバンク兄弟は決して女遊びはしない。

 「ブロンコ・ヘンリー」への敬意を表しながら乾杯を交した一行は、予約していたレストランで食事をとる。寡婦のローズが、息子のピーターに手伝ってもらいながら一人で切り盛りしている店である。ピーターはひょろひょろとした長身で柳腰、目ばかりがギョロギョロと大きい、いかにも脆弱な青年である。フィルやカウボーイたちからつねづね「女のような息子」とバカにされている。

 店に入るなりフィルは、騒がしい先客たちの存在に嫌悪感をむき出しにしながら、テーブルに飾られた紙製の花に目をとめる。ピーターがありあわせの紙を使って器用に細工したものだ。ギャルソンのように白いナプキンを腕に垂らしながら給仕を手伝うピーターのことを目で追いながら、「この花はいったいどこのレディーの手づくりかな」とわざとらしく声を上げ、花芯を汚れた指でいたぶって見せる。あげくに、得意気にブロンコ・ヘンリーの思い出話をカウボーイたちに披露しながら、紙の花をろうそくで燃やし、その火をタバコに付けて吸い始める。ついでに、先客たちに対しても「うるさい」と怒鳴ってすごんでみせる。

 この一連の出来事は、フィルたちが店にくるたびに繰り返されてきた騒動なのだろう。フィルはピーターを見かけるたびに「女のような息子」とバカにし、いじってきたのだろう。ピーターは耐えかねて厨房に引っ込んで、涙ぐみながら愛用の櫛の歯を指ではじいて気を静めようとする。そんなふうにピーターがフィルから受ける仕打ちに、ローズも胸を痛め傷ついている。

 フィルとジョージの中年兄弟のあいだにいまも一つベッドで寝るような妙な関係があるように、このローズとピーターも母子でありながら恋人同士のような親密すぎる関係にある。ピーターは母のことを「ママ」や「母さん」ではなく「ローズ」と名前で呼んでいるし、ローズが大学生になったピーターに妖しくスキンシップするようなシーンもある。

 のちに明かされるように、ピーターは医者だった父親が首を吊って自殺したときの第一発見者だった。ピーターはその父と同じ医学の道をまっすぐに志している。見かけは軟弱だが、いったん思い込むと意志を貫く鋼のような強さをもっているのだ。ピーターのローズへの態度も、じつはそのような強さを認めてもらいたいという自意識のあらわれなのかもしれない。ローズはそんなピーターに、失った夫の面影を見ているのかもしれない。

 ピーターには不気味な一面もある。母の手伝いで鳥を絞めたり、自主研究のためにウサギを解剖したり、生き物を殺めることにまったく躊躇がないのだ。命あるものの生殺与奪に特別な感情をもたないサイコパスのような、死生観や生命観について何かが欠如した青年のようでもある。このことは映画のクライマックスの布石にもなっていく。

 ピーターを演じるのは新人俳優のコディ・スミット=マクフィー。大風に吹かれたらポッキリ折れてしまいそうな、長身痩躯を持てあましているような佇まいが印象深く、ある意味でフィル以上の冷血を秘めた青年を静かに熱演していた。

point 3 弟の恋は打算なのか純愛なのか

 フィルがひどい言動でピーターをからかい、それによってローズを傷つけたことに、ジョージはひどく胸を痛める。フィルと若者たちが立ち去ったあとのレストランに、精算のためという口実で一人居残り厨房に入り込んでローズを気遣う。さらにその夜、ホテルの相部屋で、フィルに対してローズを泣かせたことを遠慮がちに抗議する。こんなジョージの態度はよほど珍しいのだろう。フィルは虚を突かれたような表情を見せる。

 その後ジョージはフィルに無断で、車を走らせてビーチのローズの店を訪ねるようになる。驚くローズに対して「ただ顔が見たくて」と意外にも大胆な言葉を口にする。ピーターが留守と聞くと、みずからナプキンを腕に掛けてホールに出て、騒ぎまくっている酔客たちをあしらいながら、愛想よく給仕してみせる。ジョージとローズはたちまち親しくなっていく。

 ジョージとローズの仲を知ったフィルは憤懣をつのらせ、「女の狙いは息子の学費だ」「女とヤルだけなら結婚許可証はいらない」などとジョージを罵り、あげくに父母への手紙にローズとピーターの悪口を書き立てる。自信家のフィルが常には顧みることのないはずの両親を頼るほど、ジョージの「謀反」が身に応えているらしい。けれどもジョージはフィルに相談もなくとうとうローズと入籍してしまう。フィルは厩舎で牝馬に乱暴に当たりちらす以外になす術がない。

 フィルは二人のあいだの情愛を頭から疑っている。ローズはジョージの財産を目当てにしている、誰が風采のあがらないジョージなんかに惚れるものかと、ローズのこともジョージのことも見くびっている。

 はたしてジョージとローズの関係はフィルが思うようなローズの打算によるものなのか。もちろんそれもあっただろう。でも間違いなく二人のあいだには暖かな情愛も芽生えていたようだ。二人がドライブに出かけ、壮大な山々の風景を見ながらランチを食べるシーンがある。ローズが終始緊張気味のジョージの手をとって、ダンスの手ほどきをする。ローズのほうから二人の距離を縮めようとするのだ。ジョージは「一人じゃないっていいものだな」と感涙し、山々に包まれて二人はやさしく抱擁しあう。二人の幸福を希いたくなるような、美しく切ないシーンである。

 ローズを演じるキルスティン・ダンストは実際にもジョージを演じるジェシー・プレモンスの伴侶である。生き方にも恋愛にも不器用な男と女の、痛々しいほどにフラジャイルな情愛や機微をなんとも繊細に演じ合っていた。

point 4 ミソジニストの手の込んだイジメ

 新婚のジョージがローズを伴って兄弟の暮らしてきた邸宅に帰ってくると、無愛想な表情のフィルが待ち構えている。邸宅内は薄暗く暖房もついていない。ジョージが気を利かせてボイラー室に向かうと、緊張しながら義兄に挨拶をしようとするローズに対して、フィルは険しい口調で「おれはおまえの兄じゃない」「女ギツネめ」と言い捨てる。

 この日からフィルは、ジョージの留守を見計らって、陰湿な方法でローズを虐め辱めていく。兄弟のあいだに割り込んできたローズが許せないのだ。またそもそもフィルは根っからのミソジニスト(女性嫌悪者)でもあるようだ。ローズが男たちだけが共同生活する牧場に入り込んできたことに、生理的な嫌悪感さえ抱いているらしい。フィルの露骨ないじめは、早晩ローズが逃げ出すように仕向けるための計画的なものなのだ。

 ジョージは、フィルのローズへの冷淡さには気づいていながら、その悪魔的な「計画」には思い至れないようだ。フィルの悪意に満ちた監視や観察にさらされ苛まれているローズを守ることができない。それどころか、ローズに知事と父母を招いての食事会でピアノを弾かせるという独りよがりな夢をもち、高価なグランドピアノを購入し邸宅に運び込み、それによってローズをさらに苦しめる。

 ローズはかつて映画館でピアノ弾きをしていたが、もう長らくピアノには触っていない。人前で弾く自信も腕前もない。それでもなんとか古い楽譜を引っ張り出し、ジョージの留守中にピアノに向かって、ヨハン・シュトラウスの「ラデッキー・マーチ」の練習をしはじめる。

 ピアノを前にローズが抱えていた怖じ気を敏感に感じ取っていたのはフィルのほうだった。ローズは自分が繰り出すたどたどしい音を、二階にいるフィルがバンジョーで巧みに拾い始めていることに気づく。ローズが演奏をやめると、フィルは「ラデッキー・マーチ」の曲想を掴んで見事な即興演奏をしながら部屋から出てきて、階段上から冷たい目でローズを見下ろす。そうやってローズの至らなさをいつも観察しあげつらい、隙あらばジョージの前で暴いてみせるつもりでいるとでもいうような無言の圧力を掛けるのだ。

 ローズはフィルの嫌がらせを受け、練習がままならなくなる。知事と両親がそろった食事会では、ジョージに乞われて無理矢理ピアノの前に座らせられたが、一音も奏でることができない。フィルは、ジョージから重要な食事会のために「風呂に入ってほしい」と懇願されたことに腹をたて、食事会の日は姿を見せていなかったが、ローズがピアノの前で固まっているちょうどその時に、まるでチャンスをうかがっていたかのように「ラデッキー・マーチ」を口笛で奏でながら姿を見せる。無作法に料理をつまみながら「なぜピアノを弾かないのか。練習していたのに」とローズに嫌みを言う。

 こうしてフィルの手の込んだ嫌がらせを受けながら、ローズは壊れていく。はじめは寝室に、やがては屋敷中に酒瓶を隠し、アルコールに溺れるようになっていってしまう。

 ちなみに「ラデッキー・マーチ」といえば、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートのアンコールで必ず演奏されるポピュラーな曲だ。もちろん1920年代という映画の設定の時代にはまだニューイヤーコンサートはなかったのだが、ローズの俗物ぶりをよくあらわす選曲だと思った。きっとフィルはそんなローズの俗物ぶりをあざわらうという意図もこめて、「ラデッキー・マーチ」をいじめのネタにしたのではないか。

point 5 兄の秘密の場所・秘密の儀式

 誰が相手でも傍若無人な振る舞いを平気で繰り出すフィルが、唯一敬愛しつづけているのがブロンコ・ヘンリーである。ジョージに対しても若いカウボーイに対しても、ブロンコ・ヘンリーの思い出を語るときだけは、顔がほころび気前も機嫌もよくなる。

 ジョージがローズを邸宅に連れてきた日の夜、寝室にいたフィルが隣のバスルームでローズがたてる物音に耐えかねて厩舎に行き、そこに飾られているブロンコ・ヘンリーの鞍を持ち出し大事そうに磨きはじめる。その手つきが尋常ではない。鞍の曲線に両手を這わせて、愛おしむように撫でさするのである。フィルにとってブロンコ・ヘンリーは尊崇するメンターであるだけではなく、ただならぬ関係にあったことが暗示される。

 それだけではない。フィルは牧場近くの林のなかに灌木で巧みに隠した「秘密の場所」を持っている。そこを抜けて河岸にくると素っ裸になって、ブロンコ・ヘンリーの鞍を愛撫したときと同じような手つきで自分の体に泥を塗りたくるのだ。それが終わると川に身を浸して水浴びをする。まるで何かの儀式のようである。フィルが頑固に家のフロに入ろうとしない理由もこのことに関係しているのだろう。

 さらに、「秘密の場所」の日だまりに寝転び、ズボンのなかに忍ばせた薄汚れた布(おそらくブロンコ・ヘンリーの愛用していたスカーフか何か)を取り出し、恍惚さと切なさが混じり合った表情で自分の顔や裸の上半身を布で愛撫したりもする。カンバーバッチのダンスパフォーマンスのように優雅で情感を込めたパフォーマンスにすっかり魅せられるシーンだ。フィルは本当は繊細で(男に対しては)愛情深い人間なのに、それを誰にも知られないように無骨さと冷酷さで武装してきたのではないかとも思えてくる。

 そんなフィルの秘密は、あろうことかローズの息子のピーターによってよりはっきりと暴かれてしまう。大学の夏休みに牧場にやってきたピーターが、一人で林を散策するうちにフィルの「秘密の場所」に紛れ込んでしまうのだ。そこには小さな箱が置かれてあり、中には裸体でポーズをとる男たちの写真が載った「身体訓練」という妖しげな雑誌が入っていた。その表紙にはブロンコ・ヘンリーの署名が入っている。

 明らかにブロンコ・ヘンリーは同性愛者だったようだ。きっとフィルは若いころにその手ほどきをブロンコ・ヘンリーから受けたのだろう。フィルにとっては生涯、女性を寄せ付けず独身で通す決意をするほどの、一生一度の恋だったのかもしれない。もちろん同性愛をおおっぴらにはできない時代である。フィルは「秘密の場所」にすべてを封印し、隠し通してきた。マッチョな男に徹してきたフィルにとってそれは最大の弱点でもあった。それを、あろうことか、フィルが「お嬢ちゃん」などと呼んでいじめていたピーターに知られてしまったのだ。

point 6 兄と青年のあやうい関係変化

 「秘密の場所」で陶然と沐浴をしていたフィルは、毛嫌いしていたピーターが紛れ込んできて見ていたことを知って激怒し、裸のままでピーターを追い立てる。ところがその出来事があった直後から、フィルのピーターに対する態度が激変する。ピーターのほうの反応にも微妙な変化が起こる。

 フィルとカウボーイたちがくつろぎながら野営しているところに、まるでピクニックでもするようにジョージとローズとピーターがやってくる。ピーターはおろしたてのリーバイスを穿いていて、たちまちフィルたちのいじわるな目線と掛け声を集めるのだが、まったく動じるようすがない。むしろ履き慣れないリーバイスの腰つきを見せつけるかのように振る舞う。その様子をみて、フィルのほうから親しげに声をかけるのだ。

 フィルは牛の生皮を裂いて器用にロープを編んでいる。その手つきをピーターに見せながら、「俺たちは出会いが悪かったが友達になれる」と言いだし、上機嫌になって、編み上げたロープをピーターにやるという約束をする。ローズは、フィルが突然ピーターにかまいだしたことに不安を抱くが、フィルのピーターへのアプローチはどんどん熱心になっていく。厩舎で例のブロンコ・ヘンリーの鞍にピーターを乗せさせてやり、乗馬の指導までしはじめるのである。

 このフィルの突然の変化はいったい何なのか。はじめは、ローズから大事な息子を奪ってやろうという底意地の悪い魂胆があったようである(後述するように、原作の小説を読んだところ、そのことがはっきり書かれていた)。秘密の場所と「儀式」を目撃されてしまったピーターを、いっそのこと自分の「世界」に引き込んでやろうという目論見もあったのかもしれない。ところが思いのほか芯が強そうで、打てば響くような受け答えができるだけの知性も才気もあるピーターに、フィルはついつい好奇心を刺激されたようなのだ。

 牧場を囲む山並みの中に、ブロンコ・ヘンリーが「吠えている犬」に見立てた一角がある。フィル以外の誰も、その「犬」を見つけることができない。ところがピーターは山並みを望みながらすぐに「吠えている犬」が見えると言ってフィルを驚愕させる。この一件によってフィルのピーターへの関心は本物になる。フィルとヘンリーの「絆」をピーターが分有することを、フィルがみずから望むようになっていくのだ。

 フィルは片時もピーターを離さないほどになる。ピーターの乗馬が上達すると遠出に連れて行き、夜はロープを編みながらブロンコ・ヘンリーの思い出話を聞かせるといったふうに。アルコールに溺れてどんどん自堕落になっていくローズは、フィルとピーターが親密になっていくことに耐えられず、ますます自暴自棄になっていく。けれども、ピーターにはローズにも打ち明けていない、ひそかな「計画」があったのだ。じつはフィルの変化を計算づくで促したのはピーターのほうだったのだ。

point 7 男たちの臨界距離が突破されるとき  ★ネタバレ注意

 フィルとピーターの親密さが息苦しいほどに高まっていくと、物語は急転直下で意外な結末へとなだれ込んでいく。そのときになって、確かにいくつもの伏線が周到に張り巡らされていたことに気づくのだが、男二人の「純愛」の芽生えについつい期待しながら見ていたため、それらの「ワナ」に気づかないまま、まんまとどんでん返しを食らってしまった。でもこれはフィルが嵌められたワナそのものでもあるのだ。

 フィルの指導で遠乗りができるようになったピーターは、なぜか必死で危険な山道に一人で入り込む。そこで牛の死体を発見すると、用意してきた手袋を嵌め、メスで死体の皮を剥ぎはじめる。捕まえたウサギをこともなげに解剖して使用人を驚かせたりしていたピーターのこと、ついには大型動物を切り刻みたくなったのかと思いきや、これが重大な伏線のひとつだった。

 フィルがピーターをともなって牧場のはずれの干草場で作業していると、ウサギが一匹顔を出す。フィルはピーターにも促しながら、少年期によくやった、ウサギを棒杭置き場に追い詰める遊びに興じ始める。足を骨折して動けなくなったウサギを、またしてもこともなげに首を捻って殺してしまうピーターを驚きの表情でみつめるフィル。その手はいつのまにか棒杭を動かしたはずみで深い傷を負って、血が滴っている。フィルは「これしきの傷」と言わんばかりで意にも介さないが、これも重大な伏線である。

 それから二人は牧草のなかに座り、風に吹かれながら、ピーターの両親のことなどを話す。ピーターが「男になるには障害物を取り除けと父から教わった」と言うと、フィルは「お前の障害物は母親だ」と言ってローズのアルコール依存症のことを口にする。ピーターは亡くなる直前まで父も飲み続けていたこと、縊死した父の死体を自分が降ろしたこと、父から「おまえは冷たい、強すぎる」と言われていたことを告白する。これらも意外な伏線である。

 フィルはピーターの告白を聞くと、すっかり魂が震わされたかのような表情で「かわいそうに」とつぶやく。きっとフィルはピーターのなかに「かつての自分」を見たような気持ちになったのではないかと思う。フィルには、自分が周囲の誰よりも際だって高い知性と鋭敏な感性をもっていたがために、家族からも理解されず孤高の魂を抱えて生きてきたという思いがあるのかもしれない。

 フィルとピーターの留守中に、牧場ではちょっとした事件が起こっていた。つねづねフィルが毛嫌いして牧場に寄せ付けなかった先住民の親子が、牛の生皮を買いにやってきたのだ。ローズはフィルが嫌がることを承知していながら、干してあった皮をすべて先住民にやってしまう。帰ってきたフィルは生皮が一枚もなくなっているのを見て激怒する。ピーターに約束したロープを編み上げるために必要としていた皮だったのだ。この事件が、驚くべき結末への「引き金」となる。

 ジョージに対してローズのアルコール依存のことを言い立て当たり散らすフィルに、ピーターが近寄ってきてそっと腕をとり、「皮なら持っている」と告げる。「あなたに憧れて」と、自分も生皮剥ぎやロープづくりを学ぶつもりがあることを告白するのだ。フィルは激情にかられてピーターの首を手で引き寄せながら(もうほとんどキスシーンのようだ)、「おまえの将来には何の障害もない」と言い、今夜中にロープを仕上げることを約束する。

 その夜ピーターは、用意していた生皮の紐を水に漬けた桶をフィルの作業小屋に運び込む。山で見つけた牛の死体から剥いで加工したものだ。フィルはまだ血が乾いていない深手を負ったままの手で皮紐を取り、ピーターの見ている前でロープを編んでいく。両手で皮紐を掴みながら、腰を使って編み上げたロープを引き締める。頼もしく、力強く、男らしさ全開の仕草で(見ようによってはエロティックなのである)。

 編みながら、ブロンコ・ヘンリーとの決定的な思い出を語り出す。狩りのため山に入っていたとき、天気が急変し遭難しかけたこと、ブロンコが裸でずっと体を温めてくれたこと、それによって九死に一生を得たこと。ピーターは話を聞きながら、黙ってタバコに火をつけ、フィルの唇に運んで吸わせてやり、そのタバコを今度は自分の唇に当てる。フィルの顔をじっと見つめ、大きな目をランランとさせながら、煙を吐く。これはもう、事実上のラブシーンである。

 まるで男同士の情愛をすっかり心得たかのように、ピーターのほうからフィルとの臨界距離を一気に詰め、その身体にアプローチするのである。じつは、この臨界距離の突破こそは、ピーターが入念に準備してきた渾身の一手だったのだ。

point 8 「犬の力」とマチスモの終焉 ★ネタバレ

 翌朝、フィルは突然体調を崩して起き上がれなくなる。ジョージに町の病院に運び込まれるのだが、容態を悪化させあっけなく死んでしまう。フィルの遺体は浄められ、髭も剃られ、正装させられ棺に収められる。死に顔は薄青い目を少し開き、「無」そのものである。髭がないために心なしか若々しく見える。弱々しくも見える。

 葬儀の場で、フィルを看取った医者がジョージに、発作が酷く悲惨な死だったこと、原因はおそらく炭疽菌に冒されたせいではないかと告げる。ジョージは訝しがる。フィルは炭疽菌には誰よりも注意深かった、決して病気の牛や死体に素手で触ることはなかったと。

 こうして突然のフィルの死というドンデン返しが、すべてピーターによって仕組まれていたことが明らかになる。すべての伏線がつながり、ピーターが一人で山に入り牛の死体から皮を剥いだのは炭疽菌を手に入れるためだったこと、ピーターは巧みにフィルの関心を惹きつけながらフィルを炭疽菌に感染させる機会を虎視眈々と狙っていたことなどが判明する。と言っても、ジョージもローズも、誰一人としてそのことを知るよしもない。

 フィルがいなくなった邸宅で、ピーターは旧約聖書を開いて読む。「わたしの魂を剣から、私の命を犬の力から解放したまえ」。

 ピーターは、父の教えを守って「障害物」を取り除いた。その決行のために、「詩編」のこの一節を何度も繰り返し唱え、勇気を得ていたのかもしれない。フィルはまさに強く賢く、また疑い深く執念深い「犬の力」の権化のような男だった。そのフィルを排除するために、ピーターは冷酷なほどに緻密で周到な計画をたて、たった一人でやり遂げたのだ。

 ピーターは手袋をつけ、フィルがつくりあげたロープを手にし、つかの間神妙な顔で見つめると、ベッドの下に突っ込んで隠してしまう。こうして、フィルとピーターのあいだで何が交されていたのか、フィルの最後の夜に何があったのかは、永遠に封印されてしまうことになる。窓の外では、葬儀を終えて邸宅に帰ってきたジョージとローズがひさしぶりに互いを慈しみ合う声がしている。つねに重い空気がよどんでいた邸宅内には柔らかな風が吹き込みはじめている。フィルの死とともに、抑圧的なマチスモが君臨する時代社会そのものが移り変わっていくことが暗示されているようなラストシーンである。

私ごとですが

 映画を見て深く感じ入ることが多かったことに加え、フィルとピーターの関係についてもう少し考察をめぐらしてみたかったので、トーマス・サヴェージの原作も読んでみました。フィルとジョージ、ジョージとローズ、フィルとローズ、フィルとピーターの四つ巴の関係と葛藤がさまざまなエピソードを重ねて丹念に描かれながら、終盤になって急速にフィルとピーターが親密になり、そのまま急転直下でフィルの殺害というドンデン返しが起こるという展開は、ほぼ原作どおりでした。

 いくつか映画には描かれなかった興味深い記述もありました。なかでも大きかったのは、映画ではピーターの父の自殺の原因は明らかにされていませんでしたが、原作では、父親もまたフィルによって屈辱的な思いをさせられたことをきっかけにアルコール中毒となり、ついには自殺してしまったという背景が描かれていたことです。つまりフィルはピーターの家族にとってまさに天敵のような存在だったわけです。

 逆に、映画に描かれて原作にはなかったシーンもありました。とくに、ピーターがフィルの「秘密の場所」でブロンコ・ヘンリーにまつわる「証拠品」を見つけてしまうシーンや、フィルがブロンコの思い出に浸りながら川辺で恍惚としているシーンは、映画ならではの脚色だったようです。原作のほうにはそこまで明確にブロンコとフィルの同性愛的な関係は示されません。

 それやこれや、トータルには、映画のほうが原作以上にフィルとピーターのあいだに複雑な心理的葛藤が揺れ動くような脚色と演出がされていたように思います。父の死の原因が伏せられ、ブロンコとフィルの関係があからさまにされたのも、フィルとピーターの関係を単純な復讐劇ではくくれないものにするためではないか、おそらくそれがジェーン・カンピオンの狙いなのではないかと思います。

 これは映画のほうに対する私の妄想ですが、ピーターが母と自分が生き延びるためにフィルを排除したからといって、フィルを憎んでいたとは限らないのではないか、むしろフィルを慕う気持ちも芽生えていたのではないか。なにしろピーターは、捕まえた野ウサギを母とともに愛おしんでいたかと思うと、次の瞬間には平気で命を奪うという、常人には理解しがたい生命規範をもつ青年です。きっとピーターが内側に愛情と殺意を共存させていたからこそ、あのように一途にフィルとの臨界距離を突破できたということもあったのではないか。

 前述したように、フィルは若いピーターのなかに自分と同じ「孤高の魂」を発見し、それでピーターをかけがえのない存在として強く意識しはじめていったようです。きっとフィルこそは、ローズよりもジョージよりも、ピーターのことを誰よりも理解し共感し、愛することができたかもしれないとも思うのです。ピーターもまたそのことに、気づいていたのではないかという気がしてなりません。にもかかわらずピーターが計画どおりにフィルを葬ってしまったのは、ピーターのなかにはフィルをもしのぐような「犬の力」が宿っているからではないか。あるいは、それを宿す以外に、母を守り自分が生き抜いていくことはできないという強靱な思い込みがあるからではないか。

 フィルとピーターのこの妖しく屈折した関係は、もちろんベネディクト・カンバーバッチとコディ・スミット=マクフィーの演技によるものも大きいと思います。とくにカンバーバッチは、際だった知性と野卑な下品さ、若者を惹きつける快活さと女性をおとしめる陰湿さ、牧場仕事で発揮する忍耐強さと他者に対する不寛容さといった、相反する気質や特徴を併せ持つ超人的なフィルを見事に演じていました。理解しがたく人を寄せ付けないフィルが、じつは内側に傷つきやすさやフラジリティを隠し持っていて、だからこそそれを見抜いたピーターに命を奪われていくという驚愕の物語は、カンバーバッチの演技力なくしては成立しえなかったのではないかとすら思います。