エゴイスト / EGOIST

与える者と与えられる者との切ない葛藤が胸を突く。
これはファンタジックなBL映画なんかじゃない。

映画の紹介

思春期に母親を亡くし、「おかま」と蔑まれた傷を抱えながら、東京でファッション雑誌の仕事を持ちゲイライフを謳歌している浩輔。母子家庭に育ち、いまは病気がちの母親の面倒をみながら健気に生きている青年・龍太。惹かれあい、求めあいながらも、与える者と与えられる者の不均衡が二人のあいだに亀裂をもたらし、やがて過酷な巡りあわせが訪れる。それは同性愛者に不寛容な社会のひずみのせいなのか。それとも人間のエゴイズムのせいなのか。長回し撮影や即興的演出やキャストの真摯な役作りによって、答えの出ない「問いかけ」が、しんしんと胸に迫ってくる。これはファンタジックなBL映画なんかじゃない。

エゴイスト EGOIST
制作:2022年 日本
監督:松永大司
脚本:猪飼恭子、松永大司
キャスト:鈴木亮平、宮沢氷魚、柄本明、阿川佐和子

映画の見どころ

point 1 鈴木亮平さんのゲイ表現の多色さと緻密さ

 本作品をみた誰もが賛嘆しているように、ともかく鈴木亮平さんの人物造形の奥深さ、細やかさたるや! その「職人技」を堪能したさに4度、映画館に足を運んでしまいました。鈴木さんは、原作者で故人の高山真さんの人となりやゲイ当事者たちの抱えている問題などについて徹底したリサーチを重ね、真摯な試行錯誤を経て役作りしたことをかれこれのインタビューで語っていましたが、私が感じ入ったのはたんにゲイ表現がリアルというようなことではありません。鈴木さんの演技には、いまだ社会のなかで誤解も差別も多い同性愛者として生き抜いてきた人物の心情や機微を演じきった、というか、まさに「生き切った」と言いたくなるほどです。すっかり魅入られました。

 鈴木さん演じる浩輔は女性ファッション誌の編集者で、美意識が高く、つねにハイブランドの洋服に身を包んでいます。眺めのいいマンション最上階のメゾネット式の部屋で、選りすぐりのインテリアやアートや音楽に囲まれて暮らしています。理知的だけどどこか享楽的・刹那的な生き方をしているようです。接する相手によってゲイとしてのアイデンティティ表現の色合いや陰影を微妙に、完璧に変化させます。要するに、なかなか一筋縄ではいかない人物なのです。鈴木さんは、そんな浩輔像を、ちょっとした仕草や言葉使いの変化の積み重ねによって、ほんとうに緻密に表現しています。

 たとえば、龍太と出会う前の浩輔の日常が畳みかけるように描かれる、冒頭からのいくつかのシーン。たったそれだけで、ちょっとイケズでちょっと色っぽくて、たぶんに知的で適度に剽軽で、陽気にもなれば陰気にもなる浩輔像がしっかりと伝わってきます。

 ファッション雑誌の撮影現場ではカメラマンにいかにもそれらしい注文を出しながら、陰では「恋人の親に会う」という設定のコンサバファッションコーデに棘のある嫌味を言う。仕立てのいいコートを羽織って新宿二丁目界隈を闊歩するときには成功者としての自信と色気を存分に振りまいて、口さがないゲイ仲間たちとの賑やかな飲み会ではオネエキャラをとことん開放させる。一転、実家のある千葉の田舎に帰ってくるときは全身をこれみよがしにブランド物で武装し、かつて自分を「おかま」と呼んでいじめた同級生に遭遇したときには、サングラスの奥に毒矢を潜ませているかのように悪意のエネルギーを放つ。

 鈴木亮平さんはそれらのシーンごとに、まるでノギスで測ったかのように、言葉尻ひとつ、眉尻や口角のあげ方ひとつ、顎のあげ方ひとつ、手指のふるまいひとつ、肩の張り方ひとつ、歩幅の踏み出し方ひとつで、微妙なゲイ表現の変化をつけていくのです。そうすることで、記号的なゲイ表現にまみれたフィクショナルな人物ではない、斉藤浩輔という唯一無二のリアルな人間像を、説得力をもってあらわしていました。

point 2 筋トレとセックスのパラレルな関係

 浩輔は、ゲイ仲間からの紹介でパーソナルトレーナーの龍太と出会い、最初はその美しさに目を奪われます。ストレッチの指導を受けながら「きれいな顔しているね」と臆面もなく戯れ文句を口にします。ひょんなことから筋トレを始めることになった浩輔ですが、仲間たちとの会話では「ホストクラブ」や「キャバクラ感覚」と冗談めかしていたように、どうやら若くてイケメンと評判のトレーナーに多少の下心をもって会ってみようとしたようです。浩輔はその程度には享楽的で好色的なゲイなのです(オネエ要素はあっても男盛りなんですから、まあ当然です)。

 龍太はそんな浩輔の下心など吹っ飛ばすような熱心さで、徹底的に、容赦ないほど、筋トレ指導で浩輔を追い込みます。さらにトレーニング後は、龍太からの提案で、ジム近くの喫茶店で食事コントロールのレクチャーまで。対する浩輔のほうは最初の軽口はどこへやら、トレーニング疲れなのか、真っすぐすぎる龍太に対して気後れしたのか、神妙な態度で応じます。ほのかに期待していた「出会い」と違った展開に少しがっかりしていたのかも。

 ところがその席で、龍太が母子家庭に育ち、いまは別な仕事も掛け持ちしながら病気がちの母親を支えていること、いずれトレーナーとして自立する夢を持っていることなどを聞かされ、浩輔はその健気さにたちまち絆されてしまいます。思春期に母親を病気で亡くしている浩輔にとって、とても他人ごととは思えなかったのでしょう。

 その後、喫茶店のレジでちょっとしたことが起こります。「ぼくが払います」と言って譲らない龍太が、その場に小銭をぶちまけてしまい、慌てて拾い集めようとして今度は頭をレジ台にしこたまぶつけてしまうのです。このときの浩輔はちょっとあきれながらも、雛鳥の粗相を見守る親鳥のような表情です。「愛(う)いやつだな」とでも思ったのでしょう。でも、ここ、まさに「かわいそうだたあ、惚れたってこと」なんですよ。

 その後も浩輔は龍太の筋トレ指導を、表面上は熱心に受け続けます。そして、いまは仕事を選べないという龍太の実入りの悪さを慮って、「お母さんに」と高級寿司をおみやげに買い与えたりします。これがきっかけで、二人の親密度がたちまち沸点に達し、怒涛の肉体関係を結んでいくことになります。

 本作を見たゲイ当事者たちが語っているように、また私自身も当事者から聞いた感想によると、浩輔と龍太の濡れ場はとてもリアルだとか。私自身は男性同士の行為がここまであからさまに描かれた映像を見たことがなかったので、最初は驚き、何度目かにはすっかり「博物学的関心」をもって見入りました。濡れ場はゲイ当事者のインティマシー・コレオグラファーがついて入念に「振り付け」されていたとのこと。そのせいなのでしょう、演じる亮平さんと氷魚さんの体格がよいこともあって(とりわけ筋肉づくりで定評ある鈴木さん)、「身体芸術的」、というか「体育的」にものすごい迫真のものを見たという感慨がありました。

 しかも、二人の濡れ場は、龍太が徹底的に浩輔を鍛える筋トレシーンとパラレルに描かれていくのです。このセックスと筋トレの連関性がなんともおもしろい。トレーニングでは指導者の龍太は浩輔よりも上位にいて、筋肉痙攣を起こす寸前まで浩輔の筋肉を追い込んでいきます。溌剌とした声掛けで浩輔を励ましながらも、いっさい妥協を許さない龍太には、なにやら小悪魔的魅力も感じます。そして、セックスにおいても、見た目の印象とは逆に、龍太がタチで浩輔がウケです(両人ともリバでもあるようですが)。年上で人生経験も社会経験も豊富、しかも筋肉量からして龍太を圧倒する体格の持ち主の浩輔が、一貫して龍太に組み敷かれている図になるわけです。思わずにやにやしてしまいました。

point 3 ナルシストの絶叫「夜へ急ぐ人」

 初めて龍太と結ばれた浩輔が、派手な毛皮のコートを羽織って、ヘアブラシをマイクがわりに、鏡の前で何やらおどろおどろしい詞の歌を歌いだします。キーが高すぎるうえに、音程が合っているかはずれているのかよくわからないほどムツカシイ曲らしく、次第に陶酔しながら絶叫するような声を出す浩輔が、滑稽にさえ見えます(鈴木さんはこのシーンはかなり恥ずかしかったと語っていました)。

 これは友川かずきさん作詞作曲の「夜へ急ぐ人」、ちあきなおみさんが紅白で歌って伝説となった歌だそうです。その映像がYouTubeにあがっているのでそれも見ましたが、鈴木さんはそのちあきさんの鬼気迫るパフォーマンスをコピーしようとしたようです。このシーンでも鈴木さんのガッツが迸っていたわけです。

 歌詞がなんとも意味深です。「かんかん照りの昼は怖い 正体あらわす夜も怖い 燃える恋ほど 脆い恋」。美しい青年と結ばれ情熱的な時間を過ごした浩輔が、その直後に歌う歌としては、あまりにも不穏で不気味。恋に溺れる「ヒロイン」を演じるかのようにナルシスティックに歌い上げる浩輔ですが、自分の状況にどこかで懐疑心も覚えているのではないかというような深読みもしたくなります。きっといままで、同性愛者として、燃える恋に身を焦がしながらも、たちまち冷や水を浴びせられるような辛い経験を重ねてきたのでしょうね。

 それと、もうひとつこの歌が暗示しているように思うのは、浩輔と龍太が筋トレとセックスで体を接しあうのは、もっぱら昼の時間だけだということです。これは今どきのふつうの男女のカップルであれば考えにくいことですが、二人が夜の時間を分かち合えない恋人同士であるということには、同性愛者ならではの事情が関係していそうです。龍太が病気がちの母親との二人暮らしであること、浩輔とのことはその母親に決して知られてはならないということ、それを浩輔も痛いほどよくわかっているから夜まで引き止められないということなどなど。

 さらに物語が進むと、龍太が浩輔には伏せていたもうひとつの「夜の顔」を持っていたことが明るみになります。「かんかん照りの昼は怖い 正体あらわす夜も怖い 燃える恋ほど 脆い恋」。まさに二人の不穏な関係性を象徴するような歌詞です。

point 4 ピュアな龍太の他人行儀の謎

 宮沢氷魚さん演じる龍太は、劇中で浩輔が「なんか、ピュア」と表現するように、はかなげな美しさをもつ透明感あふれる好青年です。龍太が初めて浩輔の目の前に登場するシーンは鮮烈です。初トレーニングの日にあいにく大雨が降り、一足早くビル地下にあるレンタルジムに着いた浩輔がぼんやりと流れる雨水を見つめていると、階段上にびしょ濡れの龍太があらわれ「すみません」と声をかけ、そのまま慌てて階段を駆け下りてきます。ずぶ濡れの天使が空から落ちてきたかのようで、この瞬間、浩輔とともに観客もまた龍太のピュアな魅力のとりこになってしまう、そんなシーンです。

 ですが、ストーリーがもっぱら浩輔の側の視点から描かれていくため、龍太の側にいったいどんな心情がうつろっているのかが、なかなか見えてきません。とくに、二人の関係の臨界突破は先に龍太のほうから仕掛けられるのですが、いったいなぜ龍太にそんな気持ちが起こったのかが謎のままに、二人はめくるめく怒涛の肉弾戦に入っていくのです。

 きっかけは、龍太には手が出なかった、お母さんのためのお寿司のおみやげを浩輔が大人の余裕と配慮をもって買い与えたことでした。龍太は恐縮しすぎて泣き顔のような表情を浮かべるのですが、歩道橋にさしかかったとき、浩輔のことを追い抜きざまに盗むようにキスをします(宣伝動画で使われていた印象的なシーンです)。「なんのつもり?」と怪訝な顔をする浩輔に対して、龍太は「浩輔さんは素敵です」と好意を告げます。けれども「素敵です」だけでは、恋愛沙汰の告白としてはどうにもこうにも中途半端な感じです。

 その後二人が熱情を交わしあうようになっても、浩輔が毎度「お母さんのために」と高価なおみやげを持たせようとすることに、龍太はいちいち困惑した表情を見せます。そのように、どこか過剰なほどの他人行儀の抜けない龍太について、浩輔は浩輔で別な理由で違和感を抱いています。ゲイ仲間たちと喫茶店でケーキの試食をして盛り上がりながら、ついそのことを愚痴ってしまいます。「セックスが、丁寧すぎる」と。

 そこから、浩輔の抱く違和感や、他人行儀な空気感をもたらした龍太の側の事情が明かされていく展開はギュンギュン胸締め付けられる、前半のクライマックスです。

point 5 セックスワーカーの生きる意地  ★ネタバレあり

 順調にはぐくんでいたかのように見えた二人の関係は突然中断されます。浩輔がいつものように帰り際の龍太に「おみやげ」を渡そうとすると、龍太は思いつめた表情で突然「もう会いたくない」と言い出します。そして、高校をやめてからずっと体を売って母親を養ってきたことを明かし、浩輔と出会い深い関係になってからその仕事がつらくなってしまったのだと訴えます。このときの龍太=氷魚さんの濡れたような目の切なさ、美しさといったら! 「いままでは、ずっと、うまくやってきた」「だからもう会いたくない」と、浩輔にとっては理不尽な理由で必死に別れを切り出す龍太の切迫感が、それを受け止めかねている浩輔の心臓を通り越して、見る側にまで突き刺さってくる名場面です。

 浩輔と別れた龍太が、手慣れた様子で3人の客たちに体を売るシーンはさらに衝撃的です。宮沢さんが、鈴木さんとの濡れ場以上に生々しく、いろんな体位のセックスシーンを演じているということの驚きもさることながら、そんな仕事を「いままでは、うまくやってきた」という龍太が、じつは浩輔を相手にしたときにも「うまくやっていた」のだということ、つまり職業的に培ってきた気遣いや丁寧さを手を抜くことなくやりきっていたのだということを、観客である私たちも思い知らされることになるからです。浩輔が感じていた違和感の正体もこれで明らかになるわけです。

 好意をもった男性を前にしても、そんなふうに職業的に接してしまう龍太があわれでなりません。けれどもその一方、たとえ社会の最底辺と言われるセックスワーカーであっても、それをうまくやりぬいて母親のことを養いつづけている龍太には龍太の、矜持というものもあったはずだとも思うのです。それに龍太は、誰にも迷惑をかけず自立して金を稼ぎ、いずれトレーナーとして一本立ちするという夢さえ持っていました。それが、浩輔と出会ったことで、何もかもがうまく立ち行かなくなっていったというのですから、龍太にしてみればこれは、母親の命にもかかわる災難のようなものかもしれません。

 龍太を忘れられない浩輔は、夜な夜な売り専サイトを漁って、ついに龍太の情報を見つけ出し客のふりをしてホテルで強引に再会を果たします。けれども龍太は、顔中に苦渋をにじませ「出会わなければよかった」と吐き出します。痛々しい言葉です。それに対して浩輔は、自分の存在そのものが龍太の生きる術を奪ってしまうことを知りつつも、どうしても龍太を手放したくない一心で、かろうじて「ぼくが買ってあげる」「専属の客になる」という申し出をするのです。これもまた、あまりにも痛々しく、つらい状況です。

 浩輔の申し出を龍太は泣き崩れながら受け入れ、そんな龍太を浩輔は抱きしめます。ここもまた映画前半の名場面ですが、一度は離反してしまった二人がようやくまた結ばれたという感動以上に、そのような形でしか関係をつないでいくことができない二人の宿命の暗さのほうがのしかかってくる、とても重い抱擁シーンです。もし二人が男女であれば、婚姻という社会的に認められた「契約」に持ち込むことできるのに。それによってお互いの窮状を難なく救うことができるのに。そうすれば二人の恋はたちまちハッピーエンドが迎えられるのに。けれども、同性愛者である二人にはそんなハッピーエンドへの道は開かれていないわけです。

point 6 超えられない上下の関係 ★ネタバレあり

 驚いたことに、というか、いささかがっかりすることに(笑)、ようやく再開を果たし関係を結びなおした浩輔と龍太の濡れ場は、そのあとはいっさいありません。それどころか、浩輔から「手当て」をもらうかわりに「売り」の仕事をやめた龍太は、結局それだけではとうてい暮らしていけず、昼も夜も過酷な肉体労働に従事していくことになります。おかげで浩輔の部屋にきた龍太はいつも疲れ込んでいて、居眠りばかり。浩輔はそんな龍太の様子に胸を痛めつつも、ひどく荒れた手を見るに見かねて、ハンドクリームを塗りこんでやることくらいしかできません。

 浩輔からの手当の金額は10万円、決して多い金額ではありません。浩輔は一見ハイソな生活をしていますが、それは養う者もなく一人分の生活の責任しか負っていないせいです。そもそも雑誌編集者の月給などたかが知れています(たぶん)。それまでの生活スタイルを維持したまま毎月10万円を捻出することは、浩輔だってたやすいことではなかったと思います。

 それに、浩輔からお金を受け取りながら「必ず返します」といちいち口にする龍太の気持ち、ほんとうは自立して生きていけるようになりたいと願いながら、それができない現状に自負心を傷つけられているだろう龍太の心中を思うと、浩輔にもそれ以上の手を差し伸べられないという限界を感じていたことでしょう。何よりも、自分が龍太を愛し続けたいために金銭でつなぎとめようとしたこと、それが結果的に龍太に余計な負担をかけていることを思うと、浩輔も苦おしい罪悪感がぬぐえなかったはずです。

 浩輔と龍太はお互いに、そのような心中の翳りは表沙汰にしません。「無理させてごめんね」と浩輔が言えば、龍太は「浩輔さんのおかげで母さんに本当の仕事が言えるようになった」と、あいかわらず健気に笑ってみせるばかり。

 けれども、松永大司監督は、徹底して、残酷なまでに浩輔と龍太の格差をあぶりだすようなシーン展開を畳みかけていきます。マンション最上階にいながらにして筋トレに励んでいる浩輔に対して、龍太は汗をかきながら廃品回収や食器洗いといった地べたをはうような肉体労働に追われつづけます。浩輔の筋トレは自分の享楽生活のツケを払っているだけですが、龍太の労働は他人の享楽生活のツケを払わされているようなものです。格差社会の残酷な実態が暴かれるかのような対比です。

 マンション最上階の浩輔と、地べたを歩く龍太。この対比は、結ばれたばかりの二人が上と下とで別れを惜しんで手を振り合うシーンでも、印象的に強調されていました。でもそのころはまだ、筋トレでもセックスでも龍太がリードする側にありました。それによって浩輔に対して龍太は対等に、ときには優位に接することができていました。

 でも金銭を介した関係に変わった二人は、与える者=上位と与えられる者=下位という、社会格差を反映した関係に固定されてしまったかのようです。このあたりから、この映画のタイトルであって最大のテーマである「エゴイスト」の意味が鋭い刃となって、見る側に迫ってくるような気がしました。

point 7 母には言えない、見せたくない関係

 浩輔は、龍太とお母さんの暮らすアパートの粗末な部屋に招かれます。龍太は、浩輔がいつものしゃれ込んだファッションではなく、リクルートスーツみたいな地味な紺色のスーツを窮屈そうに着ている様子をみて、「いつもと違う」と無邪気にからかいます。浩輔は「恋人の親に会うことなんてないから」と緊張しっぱなし。冒頭のファッション誌の撮影シーンで、「恋人の親に会う」という設定のコーデのあまりのコンサバぶりを馬鹿にしていた浩輔が、結局同じシチュエーションになると典型的コンサバスーツに身をやつしているわけです。

 思わずクスっときますが、浩輔の場合は「清楚」や「清潔感」を装うためではなく、ゲイというアイデンティティを隠し通すためという深刻な事情もあるわけです。「決して親に真実を明かせない」という桎梏を抱えているカップルの日常が垣間見える、そうそうクスクスしていられないシーンです。

 多くの映画評が驚きをもって絶賛しているように、龍太の母・妙子を演じる阿川佐和子さんの「演技を超える素の存在感」にはやはり目を見張りました。つましい暮らしぶりがうかがえる小さな小さなお母さんですが(浩輔と龍太が大きいので小ささが強調されて見えてしまうのです)、とても朗らかで人間力があふれています。きっとそれは阿川さんの持ち前のものなのでしょう。

 その妙子が龍太に食材の買い足しを頼んだせいで、束の間、浩輔は妙子と二人きりで過ごします。問われるままに幼くして母親を亡くしたことなどを話し、自分をもてなすために張り切ってたくさんの総菜を用意してくれる妙子の小さな背中を見つめます。まだ二人のあいだに何も起こっていないのに、早くも胸が締め付けられるシーンです。浩輔が龍太だけではなく、その母親とも引き返せない出会いをしてしまったことが強く印象づけられます。

 狭くるしいダイニングで妙子の手料理を三人で味わうシーンは日だまりのような温かさに満ちていますが、何も知らない妙子が無邪気に浩輔の結婚や彼女のことを聞いてしまったことから一転、空気が凍りそうになります。目の前にいる一番大切な人のことを公にできない、家族にさえ言えない、いや、家族だからこそ明かせないという、同性愛者が抱えてきた残酷な「現実」が幸せな空間に突如立ちはだかるのです。あわてて龍太が機転を利かし、浩輔からもらった皮ジャンを妙子に見せて話をそらします。

 じつは、浩輔と龍太が初めて結ばれたとき、シャワー室から出てきた龍太が、サイドテーブルの上に伏せられていた浩輔の母の写真(写真立て)を見つけるという場面が挿入されています。龍太を部屋に招きいれるなり怒涛の濡れ場に突入していった経緯からして、浩輔が母親の写真を伏せたのは、コトが終わってからのことではないかと思います。すでに亡くなってしまった写真の中の母にさえ男性の恋人の存在を隠さずにいられない。やはり、同性愛者である浩輔が抱えている桎梏が垣間見えるシーンです。

 多くの男性にとって、母親という存在こそはこの世でいちばん冒したくないもの、この世の誰を敵にまわしても冒されたくないものだろうと思います。たとえふだんはめったに合わなくなっても、たとえ亡くなってしまっても、大好きだった母親の面影を聖域のように抱えている男性は少なくないと思います。それを思うと、浩輔や龍太が置かれている境遇とそれぞれの母親との関係にも、なんともいえない切なさを感じます。

 それからまもなく妙子がヘルニアで入院してしまい、そのことが浩輔と龍太の関係をさらに動かしていきます。浩輔は病院に詰めている龍太を励まし、入院費用としていつもの「手当」とはべつにお金を渡します。浩輔は、龍太を通して妙子にも手を差し伸べたいという強い思いを抱くようになったようです。幼いころに死に別れた母に対してできなかったことの代償行為でもあるのでしょう。

point 8 ホクロやらピアスホールやら緑の虹彩やら

 本作は全編にわたって、たった一台の手持ちカメラで撮影されています。しかも状況を説明するようなカットは極力排除され、もっぱら人物たちの顔や手のアップですべての情景描写が進みます。対話する人物の顔を、カメラを振りながら追いかけるようなカットも多く、そのため映画館で車酔い状態になる人もいたようです(私は平気でした)。

 あまりにもカメラが人物に密着しているため、皮膚の下でうごめいている想念までが映し出されているように見えてきます。松永監督の演出によって、脚本どおりの設定や会話のゴールだけは守りつつ、即興劇のようなやりとりを何度も重ねながら組み立てていったシーンも多かったとのことなので、俳優たちがリアルに感じていた葛藤や困惑やとまどいも、大写しの皮膚を通して見えていたのかもしれません。

 それとはべつに、キャストたちの皮膚のテクスチュアまで見えてくるようなアップの連続のせいで、映画館での鑑賞を重ねるたびに、私のなかで物語の進行と関係のないさまざまな妄想的発見がうごめいていきました。

 たとえば、初見のときには浩輔=鈴木さんのうなじに見える二つのホクロのことがやたら気になって、龍太に対面して受けの芝居をしているときの浩輔の表情は見えないのですが、首筋のホクロが雄弁に心境を語ってくれているような気がしてやたら注視し、追いかけてしまったり。

 二度目の鑑賞時には浩輔の左耳にくっきり見える二連のピアスホールが気になって、それは役作りでもなんでもなく鈴木さんの耳のピアスホールなのだとわかっていながら、浩輔はかつてはもっとド派手なファッションを楽しんでいたに違いないという妄想が膨らんだり、どんな身体変容も辞さない役作りに徹してきたという鈴木さんの役者魂にふいに感動を覚えてしまったり。

 そうかと思えば、日米クォーターの血をもつ宮沢氷魚さんの瞳の茶色の虹彩のなかに、よく見ると緑色が混じっていることに気づいて、画面を止めてもっとよく見たいという欲求にかられてしまったり。その宮沢さんの白い肌よりも、鈴木さんのオークルイエローの肌のほうが肌理が細かくて滑らかそうなことに気づいてしまったり。濃密にからみあう二人の体に体毛がほとんどないことが妙に気になってきて、もしどちらかが毛深い俳優だったりしたら濡れ場の情緒はかなり違ったものになってしまうに違いないなどと、かなりどうでもいい妄想が暴走しはじめてしまったり。

 皮膚というものがこれほど雄弁で、これほど人の妄想をかきたてるものだったということ、初めて知りました。なるほど、皮膚は「第二の脳」などと言われるわけだと納得します。この映画に即していえば、皮膚こそは「第二の心理」なんてことも言えそうです。

point 9 耐えがたい衝撃を救った言葉 ★ネタバレあり

 じつは私は本作を見る前に、高山さんの原作を読んでいました。映画の宣伝動画を見て、幸せの絶頂にいる浩輔と龍太が何事に見舞われるのかをどうしても知りたいという欲求が抑えられなかったのです。だから、龍太の突然死のことも知っていました。もしそういう展開が待ち受けていることを知らないでこの映画を見ていたとしたら、はたしてこの衝撃に耐えられただろうか、映画の後半の展開が何も頭に入ってこないくらい、浩輔の喪失感に感情移入しすぎてしまったかもしれない、と思います。映画館で激しく洟をすすり嗚咽していたお客様は、きっとこの衝撃をまともに受けた方たちなのでしょう。

 龍太の訃報を妙子から電話で聞かされたときの混乱と動揺を、「えっ」というかすれ声だけで表現しきる鈴木さんの演技が、やっぱり、ともかくすさまじい。通夜に行き「決して涙は見せまい」とばかりに沈痛な面持ちを強張らせていたのに、焼香をすませ逃げるように帰ろうとした矢先に人にぶつかってしまい、そのまま決壊してしまったかのように膝から崩れて嗚咽をもらすところは、私自身も決壊してしまいそうになりました。恋人の通夜であっても自分の立場を誰にも明かせないなんて。慟哭を抑え込んでその場にいなければならないなんて。そのうえ浩輔は、龍太の突然死の原因が自分にあるかもしれないというおそろしい罪業感に苛まれているわけです。

 そんなふうに浩輔が突き落とされた暗闇に光を差し込んでくれたのは、ほかでもない、龍太の母・妙子でした。

 通夜振る舞いの席で、ただただ「ごめんなさい」と言葉にならない言葉を口にする浩輔に対して、妙子はすでに浩輔と龍太の関係を知っていたことを告げるのです。浩輔が二人のアパートを訪ねた日の夜、妙子が龍太にそのことを尋ねると、龍太が何度も「ごめんなさい」と言って泣いていたというエピソードも明かし、すっかり浩輔のことを包み込んでいきます。妙子自身一人息子を失ってどん底にいるはずなのに、通夜客に対する礼儀を欠かさず、息子の恋人の悲しみにまで寄り添おうとするのです。小さな小さな妙子のなんと立派なこと。健気なこと。そして、やはりこの母にして、あの龍太ありだったのかと思わずにいられません。

 もう一人、浩輔に意外な光明を与えたのが、柄本明さん演じる浩輔の父親です。浩輔とは男同士のぶっきらぼうな会話しかしませんし、「誰かいい人いないのか」と浩輔を困らせるような質問を繰り出す昔気質な父親ですが、早くに妻(つまり浩輔の母)を亡くしながら、家事一切をこなして浩輔を育て上げた、やっぱり人間的に出来た父親なのです。傷心を抱えて実家に戻ってきた浩輔に何も聞かずひさしぶりの手料理を食べさせながら、「母さん」が病気で倒れたときのことを問われるままに話します。夫婦の危機をどんなふうに乗り越えたのかをぼそぼそ語り、こんなことを言います。「出会っちゃったんだから、しょうがない」。

 この「出会っちゃったんだから、しょうがない」は、浩輔の葛藤や悔恨を反映してどんどん重苦しくなっていく展開のなかで、観客にとっても救いとなるような言葉になっていたと思います。浩輔が「なぜこんなことをするのか」「なぜここまでするのか」の答えを代弁するような言葉でもあったと思います。

point 10 目に見えるものしか信じない。では愛は? ★ネタバレあり

 最愛の龍太を失った浩輔は、泣き崩れはしても、決して壊れきったりはしません。自暴自棄にもならず、自堕落にもならず、変わらずゲイとしての生き方や美意識を守りながら、自分自身を律しつづけます。もちろん、妙子や父親の言葉が救いになったことが大きかったと思いますが、浩輔はもともとそれほどの意気地の持ち主なのです(たぶん)。

 浩輔は、一人残された妙子のことを気に掛けて、何かれと面倒をみるようになります。そればかりか、龍太にしてやっていたのと同じように、妙子の生活費の手当てもし始めます。

 浩輔が初めて現金を妙子に手渡そうとするときのやりとりは、キャストのインタビューなどでたびたび話題になっていましたが、演じる鈴木さんには「お金を渡す」、阿川さんには「納得するまで受け取らない」という相反するミッションを監督が与えて、何回ものテイクを重ねてつくりあげていったそうです。阿川さんがなかなか受け取ってくれず、鈴木さんがかなり追い詰められているようすがわかるシーンですが、ついに絞り出すように口にした「(龍太とのこともお母さんとのことも)なかったことにできないんです」は、父親の「出会っちゃったんだから、しょうがない」とも響きあう、さすがの着地点です。

 それにしてもなぜお金なのか。愛を注ぐだけでは足りないのか。寄り添うだけではだめなのか。それとも浩輔は、昔のドラマの名ゼリフみたいに「同情するなら金をやれ」という信条の持ち主なのか。映画初見のときに、私にはそんな疑問がずっと蟠っていました。でも二度、三度と見て、この映画に仕込まれているシーンや言葉の網の目のような暗示を読み解きながら、こんなことを思うようになりました。

 浩輔と龍太が一夜をともにした最初で最後の夜、龍太がスマホで嫌がる浩輔を動画撮影したりするイチャイチャシーンがあります。母親との思い出語りに耽る浩輔に、龍太はカメラを向けながら「天国を信じますか」とやにわにインタビューし、浩輔は「やめて」とレンズから逃げながら、「信じない」「目に見えるものしか信じない」と言います。

 私は最初、この「目に見えるものしか信じない」は、このあとに展開する死の床の妙子との会話の伏線だったというふうに見ていたのですが(妙子が「天国」の話をするシーンです)、いまではこの言葉こそ浩輔の行為の理由につながるキーフレーズなのかもしれないと思っています。さらには、浩輔は眼に見えない「愛」というものに対して、やっぱりどこか懐疑的な考えをもっていたのではないかという確信も持ちました。

 冷血漢というわけではないのです。きっと、まだまだ社会の風当たりの強いゲイとして生き抜くために、知らず知らずに身に付けたプラグマティックな思想・信念のようなものだったのではないか。それは原作者であり浩輔のモデルでもある高山真さんのもつものだったのかもしれませんし、あるいは、ひょっとしたら松永監督自身が、そういう信条の持ち主なのかもしれません。少なくとも松永監督には「ほらほら、これがぼくの愛」というような押しつけがましい映画にはしたくないという、強固な信念はあったと思います。

 思えばこの映画、浩輔と龍太の当人同士は、「愛」という言葉を交わし合うことはありません。最後のイチャイチャ会話でさえ「ぼくのこと好き?」「きら~い」「えっ」「うそ。大好き」「うん、知ってる」「いやあねえ」というふうに、反語的愛情表現の応酬だけです。

 そして驚くべきことに、そこまでして封印されていた「愛」という言葉が、いよいよの終盤のクライマックスで、浩輔と妙子とのあいだで交わされていくことになるのですが、それについては後述します。

point 11 一人ぶんの部屋に置かれたもう一つの椅子 ★ネタバレあり

 浩輔は積極的に妙子との新たな関係性を育んでいきますが、何によっても埋められない喪失感をずっと抱えて続けていることも見え隠れします。

 たとえば、眉をペンシルで丁寧に描いて、ブランドもので目いっぱいめかし込んで、ゲイ仲間たちとバーで会うシーン。浩輔の身に起こったことを知っていて慰めようとする仲間たちの前で、強いお酒を一気に飲み干して、問わずがたりに龍太の母親を「援助」していることを語ったりします。すっかり元通りの見栄と張りのある生活を取り戻しつつあるようでいて、口を開けばやっぱり龍太につながる話題を持ち出さずにはいられないのです。

 ちなみに、何度か挿入される気心知れたゲイ仲間たちとの飲み会や会話は、どれもこれも適度に毒のあるユーモアが飛び交って痛快で、ずっと見ていたくなります。実際にこの映画づくりを支えた当事者やその仲間たちが友人役を担い、本当の飲み会のように台本のない会話をしつづけて撮影されたシーンだそうです。なかでもドラァグ・クイーンのドリアン・ロロブリジーダさんはいつものド派手な出で立ちではなくひげ面の男然として登場しますが、それでも華のある存在感がすばらしく、つぶやきすらもよく通る美声で、即興的なセリフ劇の要になっていました。

 話しを戻して浩輔の喪失感のシーンですが、鏡に向かって声に出さずに歌をくちずさむところも印象深く思いました。龍太と結ばれたあと「夜に急ぐ人」を絶叫していたのとは打って変わって、まるで声を失ってしまったかのように、ささやくように歌うのです。何の歌かというと、松田聖子さんの「風立ちぬ」だとか。改めてその歌詞を読んで、いっそうこのシーンが沁みました。「風立ちぬ今は秋 今日から私は心の旅人」「振り向けば色づく草原 一人で生きてゆけそうね」「帰りたい 帰れない あなたの胸に」……。

 そんな歌を口にしながら、浩輔はキッチン前に置かれた丸テーブルの椅子に座ります。龍太と初めて迎えた朝、このテーブルでいっしょにコーヒーを飲みたいと龍太が言った、その場所です。そのときは椅子は一脚しか置かれていなかったのですが、「風立ちぬ」を口ずさむ浩輔の傍らには、いつのまに購ったものなのか、もう一脚、椅子が置かれています。ずっと一人ぶんの生活の充実にだけ贅を凝らしてきた浩輔が、おそらく初めて、自分ではない他者のために用意した椅子なのです。けれども、その椅子に座るべき龍太はもういません。

 きっと浩輔は、座る人を失ったその椅子を生涯、空席のまま、自分の場所に置き続けるのでしょう。そして、その空席に本来いるべき龍太を思いながら、「風立ちぬ」を声に出さずに歌いつづけるのでしょう。ああ、なんてこった。これを書いているだけで涙が出てきそうです。

point 12 阿川さん、ときどき女の顔? ★ネタバレあり

 浩輔はもうすっかり、妙子の前でゲイであることを包み隠さなくなります。ブランド好きもオネエ言葉も開けっぴろげで、体の不自由な妙子をいたわりながら、家の片付けから、腰のマッサージから、白髪染め、「別れた旦那の愚痴」の聞き役まで、なんでもかんでも引き受けてやります。

 妙子もまた、浩輔の存在によって、一人息子の喪失という母親にとって最も酷な経験を乗り越えようとしていたのでしょうが、私には、ときどき妙子が、龍太の母としてではなく、女ごころをもって浩輔と接しているような気がするところがありました。公開記念の舞台挨拶の映像で、松永監督が「ときどき阿川さんが浩輔ではなく鈴木亮平を見ていたので、そのときだけはNGを出した」とバラシていたのですが、それを聞いて「ああ、やっぱり」と納得しました。

 でも私は、妙子が浩輔にときめいたり、いっしょにいると華やいだ気持ちになったりすることは、なんら不自然ではないし、ちっともおかしくないと思います。女性はどんなに年を重ねても、おばあちゃんになっても、女ごころを失わないものです。とくに、家族とは別の、自分よりずっと若い男性に大事にされたりなんかしたら、やっぱり乙女心が疼くしときめきを覚えるものでしょう(私の高齢の母もしょっちゅうそうです)。ましてや、鈴木亮平が目の前にいたら、たいていのお母さんだって色めくことでしょう……。

 またそういう枯れていない気持ちがあるからこそ、妙子は浩輔に気を許しつつも、一人の女性として、人間として、何もかも依存しないように自分を律し続けることもできたのだと思うのです。浩輔からの「いっしょに住みませんか」という申し出をきっぱりと断ることができたのも、浩輔に対する好意があればこそ、どんなに自分が無力でも、相手の負担にはなりたくない、荷物にはなりたくないのです。それは龍太が抱えていたジレンマにも通じることで、妙子もまたなんとか自分のことは自分で律し、好きな相手とは対等に接したい女性なのです。と、ついつい妙子に過剰な感情移入してしまってますが、これは、人間の尊厳にもつながることだと思います。

 一方、浩輔は浩輔で、無理な金銭援助をつづけてきたせいで、懐具合があやしくなっていきます(くどいですが、雑誌編集者の実入りなんてそんなものだと思います)。だから「いっしょに住みませんか」は必ずしも好意ではなく、合理であって打算でもあるのです。いつも妙子のために高価なおみやげを差し入れしていた浩輔が、一つ1000円もする梨をあきらめて特売の梨を買おうとし、思い直してやっぱり1000円の梨を買うという、なんとも身につまされるシーンがあります。こういうシーンをわざわざ入れてくる松永監督はほんとうに甘くない人、容赦のない人だと思います。

point 13 与える者・与えられる者のむこうへ ★ネタバレあり

 妙子との穏やかな日々が続いていくかと思われた矢先、今度は妙子が姿を消してしまいます。浩輔に連絡もしないまま、突然入院してしまったのです。ようやく妙子の居場所を探し当てた浩輔は、傷つき、拗ねたような顔をしながら病室に入ってきます。わだかまりを抱えたまま二人で散歩に出た病院の庭で、浩輔は、妙子がステージ4の膵臓癌にかかっていること、先行きが短いことを知らされます。

 凍り付いた表情で咄嗟に「ぼくのせいです」と口にする浩輔。龍太を死なせてしまったのは自分ではないか、そのせいで妙子の病状も悪化させてしまったのではないかという悔悟の念でパニック状態です。そこから妙子と浩輔とのあいだでかわされる言葉こそは、この映画の白眉です。

 前述したように、浩輔は「愛」というものに懐疑心を抱き、うかつにそれを言葉にすることを拒否すらしてきた人物だと思います。だから妙子から「龍太のことも私のことも愛してくれたのよね」と言われても、「ぼくには愛がなんなのかよくわからない」と呻くことしかできないのでしょう。でも妙子の「私たちがそれを愛と感じているのだから、それでいいじゃない」という言葉によって、ようやく浩輔は何事かを得心していったようです。

 そのあと、浩輔が病院から去り際に、自動販売機で水を買い、釣銭を取りこぼしてしまい、それを拾い集めようとして思わず泣き崩れそうになりながら、懸命にこらえてまた歩き出すという一連のシーンもまた、鈴木さんの圧倒的な演技力で魅せるところです。そして、このシーンにおいても、演じる鈴木さんの顔のアップだけを追って、自動販売機や小銭をチラとも映さない松永監督の手腕に痺れます。状況の説明を徹底的に排除することで、この瞬間に浩輔に去来している想念が、まざまざと描き出されて見えるのです。

 龍太と初めて出会ったトレーニングのあと、喫茶店のレジで小銭をぶちまけてしまった龍太のこと、その瞬間に抱いた龍太への愛おしさが、狂おしいほどに蘇っていたのかもしれません。

 龍太との関係においても妙子との関係においても、自分が「お金」によってなんとか相手を支え続けようとしてきたこと、そうすることしかできないと思い詰めてきたことを悔いる思いもあったかもしれません。あるいは、本当はそれによって自分が救われていたのかもしれないということ、それでもそれを「愛」と呼んでもいいのだという妙子の言葉に、自分の信条を捨ててもすがりたくなっていることなどを、なにもかも、すべてぶちまけてしまいたいような衝動に襲われていたのかもしれません。

 けれども、やっぱり浩輔は堪えます。何もかもをぶちまけることはせず、立ち上がって、涙を拭いて、歩き出します。そうして、次第に衰弱していく妙子の病室に通いつづけます。たとえ自分の行為が自己救済にしかならないのだとしても、それがエゴそのものだとしても、それでも自分はそれをやり通すのだという決意をしなおしたかのように。そんな浩輔の張りつめた神経を、驚くべきことに、三たび、死の床にある妙子が癒していきます。

 妙子の病室は少し認知症気味の女性と相部屋になっていて、浩輔の姿をみるたびに「息子さん?」と聞いてきます。そのたびに妙子も浩輔も愛想よく「違うんですよ」と否定するのですが、どんどん弱っていく妙子があるときとうとう「そうなんですよ。自慢の息子です」と答えるのです。その言葉を聞いて、憔悴感が顔に張り付いてしまっていた浩輔は、病院のトイレで必死に涙をこらえながら、眉をきれいに書き整えます。おそらくは、妙子のために、「自慢の息子」を演じ切るために。

 ラストシーン。病床の妙子はいよいよ動けなくなり、意識も朦朧としています。その小さな手を、浩輔の大きな手が包みこんでやっていいます。妙子が眠りに落ちたのを見計らって浩輔が立ち去ろうとすると、妙子がうわごとのように「帰らないで」と呼びかけます。それは、妙子がはじめて浩輔に向けた懇願です。普通は恋人か家族にしか向けないような、「私を一人にしないで」という命の懇願です。浩輔はそれまで龍太にさえ見せたことのないような慈愛に満ちた表情で、再び妙子の傍らに寄り添い、その手を両手で包み、さすりつづけます。二人の姿は、永遠の別れを目前にしながらも、ようやく与える者・与えられる者としての葛藤も苦しみも超えたかのように、ただ、ただ安らかで、穏やかです。

 そこに、冒頭と同じように「エゴイスト」というタイトルがもう一度映し出され、この稀有で驚くべき映画が閉じられていきます。

 果たしてこの映画は、一人の「エゴイスト」の物語だったのか。だとしたら、いったいこの世の誰が「エゴイスト」ではないといえるのか。「エゴイスト」は「エゴイスト」を責められるのか。それなら私自身はどうなのか。私は誰を責められるのか。私は誰から責められるのか。答えを探そうとすれば自分自身の心に刃がつきたてられるような、そんな問いばかりが、見終わってからも、日に日に募ってくる映画でした。

私ごとですが

 ちょうど四度目の鑑賞をしてきた夜、この妄想的感想を書いている最中に、アジア・フィルム・アワードで龍太役の宮沢氷魚さんが本作で助演男優賞を取ったというニュースが飛び込んできました。その瞬間の映像には、客席にいる松永大司監督の笑顔と、鈴木亮平さんの感涙が映っていました。まるで『エゴイスト』の世界観そのままのような気がして、私も思わず涙してしまいました。鈴木さんも主演男優賞にノミネートされていたのですが、残念ながら最優秀賞はトニー・レオンに渡ってしまいました。なんとか鈴木さんにとってほしかったけど、アジアの至宝ことトニー・レオンが相手なら、ま、文句は言えません(笑)。

 洋画贔屓の私がこの映画に関心をもったきっかけは、ひとつはここ最近の映画やドラマで立て続けに鈴木亮平さんの演技をみて、役作りの真摯さや確かさに瞠目していたからです。その鈴木さんが同性愛者を演じた映画が公開されるのを知って、何はさておき見たいと思っていたのでした

 もうひとつは、松永大司監督が何かのインタビューで、この映画の絵作りについて、ルカ・グァダニーノ監督の「君の名前で僕を呼んで」を意識していたと語っているのを読んだことです。「君の名前で僕を呼んで」は私がこの妄想的映画感想ブログを書き始めた動機そのものといってもいい映画です。これを引き合いに出されては、見ないわけにはいきません。

 当ブログの「君の名前で僕を呼んで」の感想のところに書きましたが、グァダニーノ監督は「すべての映画は監督と俳優とのラブストーリーであり、監督と俳優、また俳優と俳優同士の関係性が映画をつくる過程で深まっていくこと、それによって人物が誠実に表現されていくことを重視している」と語っています。この言葉に感銘を受けた私は、そういうふうにつくられた感じのする映画を好んでこのブログで取り上げていこうと思ったわけですが、まさに松永監督の「エゴイスト」は、グァダニーノ監督の理想とする映画づくりに適った作品なのにちがいないと思いますし、アジア・フィルム・アワードの感動的な一コマを見て、そのことを確信しています。

 折しもこの映画が公開されるタイミングで、首相秘書官が同性愛者に対する酷い差別発言をして更迭されるという出来事がありました。私自身このことに強い憤りを感じ、にわかに同性婚やLGBTQ+の人々に関する記事を関心をもって読むようになりました。ちょうど松永監督やキャストや関係者の皆さんがこの映画に込めた問題意識について語る記事もたくさん出回り始めたので並行して読み続けましたが、正直言って、この映画にかかわった皆さんほど、この問題に真摯に向き合い、かつリスクテイクしようとした人たちはそうそういないのではないかと思いました。どの記事でも、この根深い社会問題を大上段から語らず、自分たちの試行錯誤や葛藤とともに語っていたからです。

 とりわけ鈴木亮平さんが、「当事者の皆さんが見ても違和感がないものにできるか」「クィア映画として完成度の高いものにできるか」と悩んだ末にオファーを受けたと語っていたのには打たれました。鈴木さんはまたニュース番組のインタビューで「同性婚については法制化を急ぐべきだという立場だ」と明言し、また差別解消のためにエンタメ業界が担うべき責任にも言及して話題になりました。同性婚やLGBTQ+の方々への差別解消については情けない後進国である日本に、こういう体の張り方ができる役者が出てきたこと、そういう役者を生かせる映画人があらわれてきたこと、心から讃えたいです。