大いなる自由 / Great Freedom

差別的悪法にも負けず「愛」を貫く男の生き様が
本来の「自由」とは何かを問いかけてくる

映画の紹介

男性同性愛を禁ずる刑法175条によってナチスドイツの強制収容所送りとなり、戦後も繰り返し同じ罪状で投獄されるハンス。殺人の罪を犯して長年に及ぶ懲役刑を受けているヴィクトール。二人は、1945年、1957年、1968年という3つの時代をまたぎながら、強固な信頼関係で結ばれていく。差別的法律に屈することなく、自分の「愛」を貫き続けるハンスが最後にくだした決断が、人間にとっての本来の自由とは何か、究極の自由とは何かという問いをつきつける。鮮烈かつ重厚な人間ドラマ。

2021年 オーストリア・ドイツ
監督・脚本:セバスティアン・マイゼ
キャスト:フランク・ロゴフスキ、ゲオルク・フリードリヒ、アントン・フォン・ルケ、トーマス・プレン

映画の見どころ

point 1 ふてぶてしすぎる囚人

 時は1968年、男性の公衆トイレを盗み撮りした8ミリフィルムの映像から始まる。口ひげを生やした伊達男が何度も画面に登場する。偶然そこに居合わせた男たちとあやしく視線をかわし、慣れた様子ですばやくオーラルやアナルによる性行為に及ぶ。

 これは警察当局が設置した監視カメラの映像である。おそらくこの公衆トイレは、その場限りの関係を求めて同性愛者たちが集う「ホットスポット」なのだろう。証拠を掴まれ逮捕された口ひげの伊達男は、何の申し立てをすることも許されず、そのまま刑務所に収監される。男の名はハンス。罪状は男性の同性愛を禁ずる刑法175条違反である。

 ハンスは、刑務所送りになっても、平然としている。刑務官に指示されるまでもなく、手順を心得ているかのように、規律に従ってさっさと全裸になり、自ら肛門を広げて見せ、違反物の持ち込みをしていないことを示す。配属された縫製の作業場では器用にミシンを操り、熟練工さながらにシーツの縁かがりを事もなげにやって見せる。あまりにも慣れすぎていて、ふてぶてしいほどだ。刑務所暮らしがすっかり板についてしまっている様子がうかがえる。

 作業場で長身のロンゲの男がハンスの姿を見つけて視線を送り、ハンスも男に視線を返す。それだけで以心伝心、資材棚の裏で落ち合い、親しげに会話を交す。長身の男はヴィクトール。ハンスにタバコを勧めながら、「それが最近のホモの流行なのか」とハンスの口ひげをからかう。二人は以前からの顔なじみで、ヴィクトールは長いあいだ収監されていて、ハンスはひさしぶりに出戻ってきたらしいことが、二人の会話からうかがえる(加えて、タバコはこの二人にとって重要なキーアイテムなのだが、そのことはおいおい明かされていく)。

 ハンスはめざとく、作業場で一人のハンサムな青年にも目を止め熱い視線を送る。冒頭の盗み撮りの映像のなかにも映っていた青年だ。名前はレオ、国語と音楽の教員である。初めての服役らしく、つねに人目を気にするかのようにおどおどしている。一方、怖い物知らずのハンスは自分の罪状なんぞ意に介していないかのように、さっそくレオに接触をはかる。

 なぜハンスはかくまでふてぶてしいのか。何がハンスをそんなふうにしたのか。以降、その秘密が、戦後まもない1945年、さらに1957年、そして1968年の3つの時代をまたぎながら、巧みな構成によって描かれていく。

point 2 175条という悪法とナチスドイツの悪行

 ハンスを裁いた刑法175条は、鉄血宰相ビスマルクによるドイツ統一直後の1871年に制定された。「男性間の反自然的な猥褻行為」を禁止し、違反した場合は禁固刑に処すという厳しいものだ。今日からすれば明らかに人権無視の差別的悪法だが、驚くべきことにこの法律が完全に撤廃されたのは、東西ドイツの再統合後の1994年なのである。ちなみになぜ男性間だけが処罰され、女性間は問題にされなかったのかというと、キリスト教的な価値観のもと、女性には性的衝動がなく女性同性愛は存在しないと見なされていたためだ(なんとも非科学的!)。

 おもに同性愛を対象とする「反自然的猥褻行為」を禁じた法律は、古くから存在していた。またキリスト教圏以外の国々にもあったし、もちろんヨーロッパ各国にも20世紀になってからも存在した。ひっくるめてソドミー法と言われる。ソドミーというのは、旧約聖書に出てくる背徳の街「ソドム」にちなんだネーミングである。しかし、ドイツにおけるソドミー175条は、そのなかでもとりわけ悪名高い。ほかでもない、ナチス政権がその適用や運用をさらに凄惨なものにしてしまったからだ。

 1933年にナチスが政権を握ると、175条を厳罰化し、ついには男性同性愛者を強制収容所送りにするまでに及んだ。ナチスの強制収容所は、ユダヤ人絶滅収容所であるだけではなく、「国家の敵」とみなした者たちをことごとく投獄する施設としてつくられたものである。その「国家の敵」に、特定の人種や政治犯などとともに、男性同性愛者も含まれていたのである。

 背景に、ヒトラーやその取り巻きたちが信奉する極端な優性思想とアーリア主義があった。かれらは「アーリア人の純血」を守るという狂信的なプロパガンダのもと、ユダヤ人をはじめとする非アーリアとみなした人々を絶滅収容所送りにした。「アーリア人の血」を汚すという理由で、身体障害のある者や精神疾患をもつ者も殺害した。同性愛者たちは、「アーリア人の血」の繁殖にも強い国家づくりにも寄与しない、国家の弱体化を招くという理由で、排除した。

 以下、アメリカのホロコーストミュージアムが公開しているWebサイト「ホロコースト百科事典」の「第三帝国における同性愛者の迫害」によると、1933~1945年のあいだに推定10万人の男性が同性愛者として逮捕され、うち5万人ほどが通常の刑務所に拘留、5,000~1万5,000人の人々が強制収容所に収容されたという。収容所の同性愛者たちは偏見や差別による残虐行為の標的となり、長期間の生存が困難だった。同性愛の治療法を探るための人体実験のモルモットにされた者もいたという。

 第二次世界大戦が終結しナチスドイツが解体されるとともに強制収容所の生存者も解放されたのだが、収容所にいた同性愛者たちは解放されることなく、そのまま連合軍によって刑務所に移管されてしまう。連合軍の国々においても、同性愛者は罪人とみなされていたからである。

 本作の主人公ハンスは、そのようにしてナチスドイツ時代に強制収容所に入れられ、戦後もそのまま刑務所に収監された男である。その後も、刑法175条の枷によって何度も投獄されてきた。同性愛者であるという理由だけで、差別的な法律のもとでいわれのない迫害を受け、人生を奪われた男なのである。

point 3 独房の暗闇でマッチを擦れば

 1968年のふてぶてしいハンスは、性懲りもなくハンサムなレオが気になってしょうがない。あるとき中庭での自由時間中に、レオが他の囚人たちに囲まれ言いがかりをつけられているのを見かねて、男気を出してかばおうとするのだが、はずみで囚人のひとりを殴ってしまい、すぐさま懲罰房行きとなってしまう。

 おそろしいことに、懲罰房は狭苦しい真っ暗な空間である。窓がなくいっさい光が入らないのだ。だがハンスはここでもやはり「勝手知ったる」ようすで、看守に指示されるまでもなく囚人服を脱ぎ、パンツ一枚になり、排泄物用のバケツ一つだけを手に、大人しく房の中に入っていく。

 ドアが締められ真っ暗闇になると、ほどなくして小さな食器口から「頑固もの!」という悪態とともに、タバコとマッチが投げ込まれる。中庭の事件の一部始終を見ていたヴィクトールからの差し入れだ。ハンスはマッチを擦って、暗闇のなかに小さな火を灯し、落ち着いた様子でタバコを吸い始める。

 再び画面が漆黒の闇に覆われると、そのまま1945年にハンスが入れられた懲罰房の暗闇へと時間がワープする。本作では、ハンスが懲罰房に入れられるたびにこのようにして時間がワープするのだ。そうやって、3つの時代を行ったり来たりしながら、ハンスとヴィクトールそれぞれの変化、二人の関係の変化、さらには囚人たちへの刑務所の処遇の変化などが描かれる。

懲罰房の暗闇でマッチを擦ると、時代が移り変わる。(公式ホームページより)

point 4 強制収容所の生存者であること

 懲罰房の重い扉が開かれると、ハンスが暗闇にうずくまっている。痩せて衰弱し、打ちひしがれ、顔は青白い。無理やり雑に刈られたような短髪も痛々しい。これが1945年のハンスである。無謀な脱走を試みて失敗し、抵抗もむなしく懲罰房に入れられていたのだ。ドイツ敗戦と同時に連合軍によって収容所から刑務所に移管されてきた、その直後である。

 死の収容所から解放され命拾いしたのに、今度は刑務所に移されると聞いて絶望し、危険を顧みずに脱走を試みたのだろう。同性愛者は、刑務所でも収容所と同様に、酷い虐待を受ける宿命にあったのだから無理もない。

 ハンスを演じるフランツ・ロゴフスキは、1945年の生ける屍のように衰弱した青年から、1968年の懲りない色気を湛える中年までを演じるにあたり、10kg以上もの体重コントロールをしながら役作りしたという。俳優でありながら、ダンサー、振付師でもあるとのこと、どうりでハンスの内面やその変化を、決して大げさな演技ではなく、静かに、しかも雄弁に伝える身体表現がすばらしい。

 懲罰房を出された青白いハンスは、大柄な男がすでに先居している監房に移される。この男が、1945年のヴィクトールである。ヴィクトールはハンスの罪状が175条違反であることを知ると、嫌悪感をむき出しにして、房から追い出そうとする。むろんヴィクトールに同房者を選り好みする権利はなく、しぶしぶハンスを受け入れるしかない。

 ハンスには、ヴィクトールの目には奇異に映る習慣がある。ヴィクトールが棄てた吸い殻から葉を集めて、聖書の薄葉紙で器用に手巻き煙草をつくるのだ。決してタバコをくれとは言わない。そのかわり、夜中にこっそりヴィクトールのマッチを盗もうとする。食事は一粒残さず平らげ、粒がなくなると一滴も残さず皿を舐めつくし、さらに丁寧に指で皿を拭ってその指を舐める。

 どれもこれも過酷な収容所生活のなかで身につけたことなのだ。同性愛者であるがゆえに虐待を受けつづけ誰にも助けてもらえない境遇のなかで、乏しい食料や気晴らしを必死に確保しながら生き抜いてきたのだ。ヴィクトールはそんなハンスの行動を警戒しながら鋭い目で注意深く観察する。

point 5 ヴィクトールという男

 175条違反という烙印によって、ハンスは他の囚人からも毛嫌いされている。自由時間に囚人がたむろする中庭で、タバコの火を借りることもできない。その様子を見かねて、ヴィクトールは房のなかで自分のマッチを貸してやる。

 ハンスとマッチをやりとりする刹那、その腕に彫られた入れ墨にヴィクトールが気付く。収容所で入れられた囚人番号を記す入れ墨である。ハンスはこれですべてを了解する。「収容所は地獄のようだったと聞いている」と語り、ハンスに対する態度を一変させる。憐憫の情が強く動かされたかのように。そして、腕の入れ墨を、新しい入れ墨で覆って消してやると申し出る。

 ヴィクトールがなぜ突然態度を変えたのかということは、劇中ではほとんど説明されないが、終盤になって、戦争中は一人も殺さずに済んだのに、戦地から帰ってきてから人を殺めてしまったと、初めてハンスに自分の罪を語るシーンがある。そのあたりをヒントに、少々妄察してみたい。

 ヴィクトールは無骨で粗野だが、刑務所の中ではつねに一目置かれているらしい。人情に篤く、信頼を裏切らない男なのだ。加えて、ヴィクトールを演じるゲオルク・フリードリヒは、どこか「グリーン・ブック」のヴィゴ・モーテンセンを彷彿とさせる風貌である。そのせいもあって、ヴィクトールはじつは並外れた知性や鋭敏な感性を秘めた人物ではないかというふうに思えてならない(だって、ヴィゴ・モーテンセンの顏なんだから)。

 きっとヴィクトールはその知性と感性のせいで、戦地で人を殺めるような蛮勇をどうしても奮うことができず、軍隊では落伍者の烙印を押されるといった辛酸も舐めてきたのではないか。だからこそハンスがさらされてきた酷い宿命に、鋭く感応することができた。収容所によって押された烙印が、この先もハンスにもたらすであろう苦難を思いやり、「俺が消してやる」と言わずにいられなかったのだ。

point 6 男たちの絆が結ばれるとき

 二人は協力して入れ墨のための道具を調達する。調理場が仕事場であるヴィクトールがオーブンから煤を、縫製場が仕事場であるハンスがミシン針を盗み出す。それらを使って、ヴィクトールがあんなに毛嫌いしていたハンスの腕をとり、囚人番号の上に新しい入れ墨を彫り込んでいく。

 ヴィクトールは無聊をかこつて(?)、身体中に自分で入れ墨を入れることを趣味にしている。映画のなかで時間軸が進むたびに、入れ墨の数が増えていくのだが、絵心がまったくないらしく、どれもこれも子供の落書きのようにヘタクソだ。それが映画のなかでちょっとしたユーモアになっている。ハンスに「俺が自分で彫ったんだ」と自慢げに見せる腕の入れ墨も、ハンスの腕に彫りこんでいく入れ墨も、拙劣すぎて何の絵柄なのかわからない。

 それでも、ハンスは文句ひとつ言わず、注文をつけることもなく、ヴィクトールに自分の腕を委ねつづける。同性愛者として迫害を受け続けてきたハンスにとって、ヴィクトールとの出会いは、まさに闇夜の灯火、干天の慈雨、地獄に仏であっただろう。

 ここで事件が起こる。監房を検査していた看守が、ハンスの腕に彫られた新しい入れ墨を見て怪しみ、照明器具の中に隠していた入れ墨用の道具を見つけてしまうのだ。「誰の持ち物か」と厳しく詰め寄られたハンスは、ヴィクトールをかばい「自分のものだ」と言う。こうしてハンスはまたしても、あの非人道的な懲罰房送りとなってしまう。

 ハンスが裸一貫で懲罰房に入れられ、扉が閉まり真っ暗闇になる。と、すぐにタバコとマッチが食器口から投げ込まれる。ヴィクトールからだ。ハンスは暗闇のなかでマッチを擦る。たちまち消えてしまう、小さな小さなともしびだ。だが、ハンスにとってそれがどれほど心強い光に思えたことだろう。もう孤独ではない。そうやって気遣ってくれる誰かがいるのだ。

 こうして、以降も暗闇のなかの時間軸の転換を何度か繰り返しながら、ハンスとヴィクトールの無二の関係が紡がれていく。

ハンスの腕をとって、囚人番号の上からヘタクソな入れ墨を彫るヴィクトール(公式ホームページより)

point 7 真夜中のデート作戦

 再び1968年の、ふてぶてしいハンスのエピソードに戻る。

 そもそもハンスの刑期は2年ほどだ。すでに刑務所内での処世術はすっかり身に付けている。当たり障りなく刑期を全うしさえすれば、また娑婆に出られる。娑婆に出ればまた同じことを繰り返して投獄されるだろうが、そうなったとしても刑期はたかが知れているだろう。同性愛者であるがゆえに何もかもを奪われてきたハンスにとって、もはや失うものは何もない。だからこそ胸ときめくような恋だけはあきらめない。人を愛することだけはやめない。きっとこの時代のハンスには、そんな底意地すら芽生えていたのだろう。

 もちろん看守の目を盗んで自分の欲望を成就させる術も知っている。ハンスは、監房の清掃にやってきたレオに、二人きりで会う方法を伝授する。夜中の点呼の時間にわざと起きないようにしろと言う。言われたとおりに点呼を無視したレオは、屋外につくられた屋根のない懲罰房に入れられてしまう。そこでは、ほかにも何か軽微な問題を起こしたらしい囚人たちが、寒そうに毛布にくるまって坐りこんでいる。そこにまんまとハンスも混じっている。この屋外監房は相部屋なので、こういう方法で看守たちに知られることなく、夜中のデートに使えるのである。

 ハンスは他の囚人の存在を気にもせず、「こんなところで悪いな」とレオを隣に座らせる。ハンスは悲嘆に暮れ不安に苛まれているレオをなぐさめつつ、キスを交わし、毛布の下の身体を確かめ合い、やがて大胆にも重なり合っていく。お互いに上になり、下になりながら愛を交わし合う。

 こうしてハンスは塀の中にいながらにしてまんまと思いを遂げるのだが、レオから思いもよらない告白を受ける。取り調べのときに、「公衆トイレでハンスに無理やり犯された」と供述してしまったというのだ。175条違反という烙印によって、教師の職も社会的立場も失ってしまうことを案じてのことだった。もともとレオにとっては、ハンスは通りすがりの一回限りの相手でしかなかったのだろう。まさか刑務所内で再会し、星空の下で親密に愛を交わし合うことになるとは思ってもいなかったのだろう。

 そんなハンスとレオのことを、ヴィクトールは心配しながら見守っている。刑務所内でも同性愛者としての生きざまを全うしようとするハンスに、「どうなるか忘れたのか」と過去にあった何事かを思い出させようとする。

 ここで唐突に、8ミリフィルムで撮影された、美しい青年の映像が挿入される。陽光まぶしい草原のなかに寝そべりながら、撮影者に向かってはにかんだ笑顔を見せる。かつてのハンスの恋人オスカーである。もちろん撮影者はハンスだ。冒頭の男たちのあられもない姿を捉えた警察による隠し撮りの映像とは対照的だ。どちらも人のごくごくプライベートな姿を捉えているが、トイレの映像が表象するものは悪意ある冷徹であり、ハンスの映像が表象するものは、見ている側が恥ずかしくなるほどの恋心だ。

 ここから、ヴィクトールとハンスが忘れることのできないもう一つの時代、1957年のエピソードが描かれていく。

塀の中でも恋をつらぬくハンス(公式ホームページより)

point 8 もう一つの恋・もう一つの性

 1957年のハンスは、1945年・1968年のハンスよりも色気があって、尖がっている。髪型はウェービーなリーゼントでキメている。しかも恋人のオスカーといっしょに収監されてきた。だから、塀の中でもオスカーのことが気になってしょうがない。自由時間に中庭でオスカーにつきまとっているところを看守に見とがめられ、中庭への出禁をくらってしまう。

 1957年のヴィクトールは各房に食事を給仕する係を担っている。鉄扉の小さな開口部を開けて、中にいる囚人から受け取った食器にぶっきらぼうに食べ物を給仕して回る。ある房で食器口から差し出された腕に目を止め、「へたくそな入れ墨だな」と悪態をつく。その声を聞いて、ハンスが悪戯っぽい目を開口部から覗かせる(その目つきがなんだか妙に艶っぽい)。こうして二人はおよそ10年ぶりに再会を果たす。

 ハンスは房に備え付けの聖書のページに、例によって裁縫場から盗んできたミシン針で穴を開けるという方法で、オスカーに思いの丈を綴る。これも刑務所内で身につけた知恵のひとつだ。それをヴィクトールに託してオスカーの監房に届けてもらおうとするのだが、ヴィクトールは担当エリアではないと言って肯じない。

 ヴィクトールは1945年のころよりも風貌が明らかに荒んでいる。相部屋のヒッピーのような男と麻薬を常習している。そのヒッピー風情の男から、刑務所の食事に性欲を減退させる薬物が入っているという噂話を聞かされる。話を聞きながらヴィクトールはすっかり古ぼけた数枚の女性のヌード写真を見ているのだが、なにやら思い当たることがあるらしい(もちろんその原因は、ヴィクトールの荒んだ生活のほうにあるのだろうが)。

 思い詰めたヴィクトールは、たいそう意外なことに、ハンスの房に食事を運んだ折りに「助けてほしい」と切り出す。ハンスの「得意な方法」で、ヴィクトールを「慰めて」やってほしいという依頼なのだ。今度はハンスのほうが「誰でもいいというわけじゃない」と拒否する。確かにハンスの好みは、レオといいオスカーといいめっぽう美男子ばかり、むくつけきヴィクトールは相手にならないのだ。

 が、結局ハンスは聖書をオスカーに届けてもらう見返りに、ヴィクトールの望みを聴いてやる。しかも、食器口の小さな開口部からヴィクトールが一物を突っ込み、ハンスが口淫するという、まるでオナクラのようにコンビニエンスな方法で。一瞬、ヴィクトールの立派な一物が映りこむ、なんとも滑稽なシーンだ。二人のあいだには他人には明かせないことも明かせる不思議な友情があるし、そうやってオナニーの手伝いすらしてやった。それでも断じて同性愛的な関係ではない。そういう逆説的な確信を、本人たちが確認しあっているかのようにも見えるおもしろいシーンでもある。

 こうしてハンスからの聖書のラブレターは、無事にオスカーの元に届く。そこにはハンスの思いが切々と綴られ、例によって秘密のデートのための作戦も書かれている。1968年のハンスとレオと同じように、1957年のハンスとオスカーも、点呼をさぼることによって夜中の逢い引きを果たす。屋根のない屋外の懲罰房で、冷たい雨に濡れながら。

給仕係のヴィクトールと再会するなりタバコの火をもらうハンス(公式ホームページより)

point 9 男が男を抱きとめるとき―――ヴィクトールの場合 ★ネタバレ

 強制収容所の生存者にして175条の前科者であるハンスは、二度目の投獄にいっさいダメージを受けていない。このときにはすでに、同性愛者としての生を堂々と全うする覚悟も反骨心も、しっかり身につけていたようだ。

 だが、恋人のオスカーはすっかり将来に悲観している。この世のどこにも、同性愛者が生きられる場所はないと思い詰めている。そんなオスカーにハンスは、二人で東ドイツに逃れようと言う。なぜに、秘密警察シュタージによって言論や表現の自由が徹底的に封じられていた東ドイツに逃げることが希望になるのか。意外なことに、東ドイツでは、西ドイツに先んじて1958年に175条が無効化されているのだ(本作のパンフレットのマイゼ監督インタビューより)。

 だとしても生存の「自由」を求めて西から東に逃れるなんて、あまりにも荒唐無稽すぎる話だ。ハンスのほうはいたってまじめなのだが、オスカーはますます悲嘆に暮れる。

 じつは西ドイツでは、175条の見直しが進むどころか、1957年にナチスドイツによる175条の処罰強化を連邦憲法裁判所が「合法」と認定するなど、男性同性愛者に対する不寛容が再燃していたという事情もあった(星乃治彦『男たちの帝国』より)。そこには、「戦争直後の数年間には驚くほどの性的自由と性の問題についての熱心で開放的な議論が見られたにもかかわらず、1950年代はじめから半ばにかけて、突如として性的保守主義への転換が起きた」(ダグマー・ヘルツォーク『セックスとナチズムの記憶』より)という時代背景もあったのだ。

 八方塞がりを思い詰めたオスカーは、ハンスに何も告げずに一人で決着をつける。獄舎の屋上から中庭に飛び降りて自殺してしまうのだ。中庭が大騒ぎになり、調理場で作業をしていたヴィクトールが窓からその現場を目撃してしまう。中庭に出ることが許されていないハンスにはその顛末を知る由もない。

 ようやく出禁が解けて、ハンスが意気揚々と中庭に出てくる。愛しいオスカーの姿を探すのだが、どこにも姿が見えない。そんなハンスのようすを、ヴィクトールが相部屋の男とサイコロゲームをしながら、気にしている。中庭にいる囚人たちも、ハンスのことを気まずそう目で追っている。おそらくハンスとオスカーの関係は、囚人たちのあいだでも周知のことだったのだろう。不審に思ったハンスが、ヴィクトールにオスカーの居場所をたずねる。ヴィクトールは「ここにはもういない」といいながら、事実を告げる。

 ハンスはすっかり動転する。事実を受け入れられずなおもオスカーの姿を追うように、ふらふらと中庭をさまよう。ヴィクトールはハンスに近づき、その大きな身体でハンスを包み込んでやる。ハンスは思わず身を翻してヴィクトールの腕を振りほどく。中庭で囚人同士が抱擁するなどありえない。ましてやハンスは175条の罪人なのだ。だがヴィクトールは「いいんだ、いいんだ」とヴィクトールを固く抱きしめてやる。その腕のなかで、ハンスは泣き崩れる。本作のなかでもっとも胸揺さぶるシーンだ。

 出会った当初はハンスを拒絶したあのヴィクトールが、人目も気にせず、規則違反で罰せられることも厭わず、リスクを冒してハンスを抱きしめるのだ。友人として、人間として、その哀しみを全身で受け止めようとするのだ。

 たちまち看守たちが走り寄ってきて、ヴィクトールとハンスを引き離す。そのまま二人は、あの暗闇の懲罰房に連れていかれる。ヴィクトールは「人でなし!」と叫びながら大暴れするが、数人がかりで取り押さえられなすすべもない。ハンスは抵抗する意欲もなく、されるがままだ。衣服をはがされ、抱えられるように、独房の暗闇のなかに閉じ込められてしまう。

星乃治彦『男たちの帝国』とダグマー・ヘルツォーク『セックスとナチズムの記憶』は本作のパンフレットに紹介されていた。本作の背景を理解するうえで絶好の本だ。

point 10 男が男を抱きとめるとき――ハンスの場合 ★ネタバレ

 再び1968年である。ハンスは、ヴィクトールに促されてかつてオスカーを失った悔恨を思い出したかのように、現在の恋人レオのために身を挺して偽りの供述をする。レオが取り調べで話したとおり、公衆トイレでの出来事はハンスが強要したことだと認めてしまう。そのことを知ったレオは、裁判所に向かう護送車のなかでハンスに真意を確かめようとするが、ハンスはレオに告げる。「君はこんなところにいるべきじゃない」。

 一方のヴィクトールは刑期を全うし仮釈放される日が近づいている。その成否にかかわる聴聞会に臨もうとするのだが、あまりにも緊張しすぎてしまい、直前にトイレに駆け込み隠し持ってきた注射器でドラッグを摂取してしまう。ヴィクトールの腕は注射痕だらけだ。長い刑期を耐え続けてきた心身は、この期に及んですっかりドラッグに冒されてしまっていたのだ。ヴィクトールはそのまま昏睡してしまう。もちろん仮釈放は取り消しだ。

 そんなヴィクトールに、ハンスが薬物依存からの脱出の手助けを申し出る。かつて入れ墨を消してもらったお礼だという。ヴィクトールはいったん断るが、結局看守に賄賂を送り、ハンスを自分と相部屋にしてもらうよう根回しをする。ヴィクトールが待つ部屋に、ハンスがわずかな持ち物とともに移ってくる。1945年の出会いのときのように、狭い監房で二人が顔を合わせる。

 ヴィクトールの薬中との闘いが始まる。激しい離脱症状に襲われ、便器を抱えながら嘔吐を繰り返すヴィクトールを、ハンスは何も言わず介抱しつづける。我を失ってもがきつづけるヴィクトールを、全身で受け止め支えつづける。ようやく小康状態が訪れたあるとき、ヴィクトールは初めて自分の罪を告白する。戦争が終わって家に戻るなり妻の浮気現場に遭遇してしまい、相手の男と妻を殺害してしまったのだ。そのことでヴィクトールは深い傷を負い、罪悪感に苛まれ続けてきた。そのため、長い刑期をつとめながらも更生するどころか、自滅的なことをせずにはいられなかったのだ。

 ある夜ヴィクトールは衝動的に、隠し持っていた薬物に手を出そうとしてしまう。気づいたハンスはヴィクトールを羽交い締めにして必死で止めようとする。そのまま一晩中、ヴィクトールを抱えつづける。そのときは正気に戻ったヴィクトールがハンスの腕を振りほどいてしまうが、そのうちヴィクトールのほうからハンスのベッドに身を寄せ、すがるようにハンスを抱く。ハンスは何も言わずそんなヴィクトールを受け入れる。

 友情は交し合っても、決して肉体の交わりはもたないはずだった二人が、ついに結ばれてしまうのだ。かなり驚嘆してしまうシーンだが、朝を迎えたハンスとヴィクトールも、自分たちが冒したことにすっかり動転している。お互いに目も合わさず、点呼にそなえて、無言でそそくさと衣服を着て、寝乱れたベッドを整える。ヴィクトールはもちろんだが、ハンスもまた、恋愛や性愛の対象として見られなかったヴィクトールとそのような関係に至ってしまったことにひどく動揺しているようだ。ヴィクトールがわざわざ「俺は(同性愛者とは)違うからな」と念を押せば、ハンスは「知ってる」と答える。

 このシーンもやっぱり、1957年の滑稽な「オナクラ」事件同様、決して同性愛関係にはなれない、にもかかわらず特別な縁で結ばれたハンスとヴィクトールの無二の関係を逆説的にあらわしているようで、とても興味深い。ある意味では、二人の性的関係は、世界から孤絶してしまった密室ならではの、いわばホモソーシャルな環境ならではの、偶発的事故のようなものと言えるだろう。ハンスにとってもヴィクトールにとってもこんなことは必然ではなかった。だからそ、この二人が性指向の壁を越えて特別な感情でつながっていること、互いにかけがえのない存在となっていることが、強く印象づけられるのだ。

point 11 釈放か、脱獄か?

 あるときハンスは、作業場に誰かが無造作に置いた雑誌(進歩主義で知られる「シュピーゲル」誌だ)を見て仰天する。その表紙には「175条刑法改正」の特大文字が躍っていたのだ。長いあいだハンスのような同性愛者が苦しめられてきた刑法がついに改正されるのだ。

 ところが、ハンスはヴィクトールのいる監房に戻ってくるなり、切羽詰まったようすで「脱獄しよう」と言い出す。突然の話にヴィクトールは驚き、やがて「脱獄が簡単にできるなら、こんなところに長いあいだいたりはしない」と言って怒り出す。ハンスは作業場から持ち帰ってきた「シュピーゲル」をヴィクトールに見せる。「法律が改正されるなんてことがあるのか」とヴィクトールも驚く。このとき、ハンスは自分が釈放される可能性を喜ぶよりも、ヴィクトールが一人取り残される可能性のほうを心配しているのだということを、ヴィクトールも強く感じ取ったはずだ。

 その夜、ハンスは妙な物音で目を覚ます。ヴィクトールが監房の窓を鈍器で叩いて壊そうとしているのだ。そんな方法で脱獄できるわけもないのだが、ヴィクトールもまた、一人残される不安や寂寥感に耐えきれず、そのような甲斐のない行動に走らずにいられないのだろう。

 ハンスは静かにヴィクトールの手を取り、ムダな破壊行動をやめさせようとする。ヴィクトールは観念し、出所したらタバコを差し入れしてくれ、とだけハンスに頼む。

 思えばハンスとヴィクトールの関係はシーソーのようだ。どちらかが上がればもう一人が下がる。どちらかが哀しみ苦悩すればもう一人がそれを癒やそうとする。もとは決して相容れない存在であり、心を通わせても決して結ばれない関係だったのに、そうやってシーソーのように与え合い、補い合い、支え合ってきた。1945、1957、1968年という3つの時代をまたぎながら、互いが互いの片割れのようになるまで変化してきたのだ。なんという希有な関係だろう。

point 12 大いなる自由の行方 ★ネタバレ

 1969年、西ドイツは175条を改正し、21歳以上の男性同性愛が非犯罪化される。これによってハンスは釈放され、さっそくゲイたちが集うハッテン場に行く。その名も「大いなる自由」というジャズバーである。刑法改正の恩恵を受けたたくさんの男たちがバーカウンターにもフロアーにもたむろしている。すばやく視線を交し、好みの相手を、一夜の相手を見定めようとしている。公衆トイレでこっそり男漁りをする時代は終わったのだ。

 だがハンスの顔には解放された喜びもなく、輝きもない。長いあいだ虐げられ続けたハンスは、表社会の中に自分の居場所が見いだせないでいるようだ。バーカウンターで一杯の酒をあおり、激しいフリージャズが奏でられるホールに入っていく。そこでは男たちが肩を触れあわせるように密集し、うねるようなサックスの音に身をゆだねている。

 ハンスはそのなかの一人の男に目を止める。レオ、オスカーのような美男子ばかりを相手にしてきたハンスのお眼鏡にかなう、短髪・口ヒゲのハンサムな男だ。男のほうもハンスの視線に気づき、じっとりした目で見返し、ハンスを誘うように奥の空間と移動する。ハンスは男の後について、暗い階段を降りていく。

 地下空間は暗く、曲がりくねった複雑な迷宮のようだ。どこにも扉はなく、秘密の穴蔵のような空間や刑務所のように鉄格子がはめられた空間で、全裸や半裸の男たちがそれぞれに思い思いのセックスをしている。それを視ながらマスターベーションしている男もいる。ハンスはあいかわらず憂い顔で、男たちの交情を見るともなしに見ながら、迷宮の中を進んでいく。そこに甘ったるいラブソングが流れる。フランス語の愛の歌だ。

 映画パンフにあったマイゼ監督にインタビューによると、この「ダークルーム」に見られるフェティッシュはすべて、檻や公衆トイレ、刑務所のように、同性愛者たちを抑圧してきたものをあらわしているという。そこにラブソングがかかることで、彼らにとって「ダークルーム」は、たんなるセックスのための場所ではなく、誰かといっしょにいたい、コミュニティの一員でありたいという気持ちを象徴する場所になっていると、マイゼ監督は語っている。

 刑法175条は同性愛者たちの性を奪うことで、自己を奪い、名前を奪い、人生を奪い、いのちを奪ってきた。それぞれ名前をもち人生をもった人間として、愛をまっとうすることが許されてこなかった。そんな彼らが身を寄せる「ダークルーム」は、いわば「シェルター」のようなもの、ということなのだろう。

 だが、ハンスは「シェルター」に身を寄せることをやめて、地下迷宮を一巡りしただけで、地上に戻ってきてしまう。あいかわらず混み合うバーフロアーに出てきて、自動販売機でタバコを一箱買い(ヴィクトールの愛飲しているものだ)、「大いなる自由」をあとにして夜の街に飛び出していく。

 ラストシーン。ハンスはそのまま人気のない通りの宝飾店にやってきて、ショーウィンドウを石でたたき割る。防犯ベルがけたたましくなりひびくなか、ポケットに適当な戦利品を詰め込む。そのまま逃げるようすもなく、落ち着き払って舗道の縁石に腰をかけ、タバコに火を付ける。

 ハンスはまもなく、駆けつけた警察によって逮捕され、再び塀の中に収監されてしまうだろう。いったい何のために? またヴィクトールの前に姿を見せるために。娑婆で手に入れた唯一のものであるタバコを届けるために。

 ハンスはおそらく生まれて初めて、「大いなる自由」を自らの意志で、思い通りに行使したのだ。175条によって逮捕されることのなくなった社会で、自分のための「自由」を謳歌するのではなく、塀の中に残してきたヴィクトールのために、ヴィクトールの荒廃しつつある心身を救うために行使するという選択をしたのだ。ハンスにとって、それを全うするということが、もっとも切実で、誇りある「自由」のあり方、みずからの人生の究極の選択なのだ。

私ごとですが

 この映画を見終わったとき、「善き人のためのソナタ」のことを思い出しました。2006年のドイツ映画です(監督はフローリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)。東ドイツの秘密警察シュタージの優秀な大尉が、反体制派の作家とその恋人の私生活を盗聴・監視しつづけるうちに、思想的・心情的な変化を起こし、最後には驚くべき行動に出るというストーリーです。

 西側にあまり知られていなかった旧東ドイツの監視社会の実像をリアルに描き、話題になった映画でもあります。24時間、交代制で監視対象者の日常会話から性生活までをあらいざらい盗聴し記録していく秘密警察の捜査の徹底ぶりや執念深さに、極端な全体主義国家の異常性や恐ろしさを印象づけられたものでした。

 それだけに、主人公であるヴィースラー大尉が最後に選んだ行動の意味が、突き刺さってきました。映画を見終わったあとも長いあいだその余韻が続きました。自由なき社会に順応し地位を得て生きてきた男が、初めて自分で考え自分で感じて、みずからの地位を投げうって他者のために行動する「自由」を行使するのです。
 本作「大いなる自由」のハンスの行動も、「善き人のためのソナタ」のヴィースラー大尉と通底しているものがあるように思いました。同性愛者として迫害を受け「自由」を奪われてきた男が、ようやくその枷から解放されたとたん、他者を救うために「自由」を行使するという決断をするわけです。

 両方とも、究極の自由、本来の自由、大いなる自由とは何かということを観る側に強く問いかけてきます。といっても、主人公たちは英語でいうfreedomのための闘いをしているわけでも、libertyのための闘いをしているわけでもない。もちろん崇高な自己犠牲として描かれているわけでもない。エーリッヒ・フロムやアイザイア・バーリンのもちいた言葉で言えば、「消極的自由」(~の自由)を得られない主人公たちが、一足飛びに「積極的自由」(~への自由)へ向かってしまうのです。ハンスについていえば、「監獄への自由」に向かうのですから、これはもう「不自由への自由」というような破格な行動です。

 こういう人物像は、自由主義的な価値観からだけでは、なかなか生み出し得ないように思うのです。二つの大戦で大敗し、ナチスという巨大な負を抱え、長きにわたって東西に分断されたドイツの歴史や精神史をよく知る監督たちならではの洞察が込められた設定なのだろうと思います。

わが偏愛の「善き人のためのソナタ」


 もうひとつ、個人的に本作を見て興味深く思ったのが、刑務所という男社会、いわばホモソーシャルな社会のなかで紡がれていく、主人公ハンスとヴィクトールとの関係変化です。
 ハンスは同性愛者ですがヴィクトールのことは好みではなく、ヴィクトールは最初は同性愛者への嫌悪感をむき出しにするようなノンケです。そんな二人が3つの時代を経ていくつかの事件に遭遇し、協力し支え合うなかで次第に親密になり、ついには偶発的事故のように性的な関係をもってしまいます。

 それでも二人は同性愛の関係にはなりません。当人同士がそうならないことを認め合っています。ラストではハンスは軽微な犯罪を犯してまでしてヴィクトールのいる刑務所に戻ろうとしますが、そうやって再開した二人は、親友としての絆はいっそう深めたとしても、やはり恋人同士にはならないことでしょう。

 ホモソーシャルな社会でありながら、いえ、そういう社会であるからこそ、男同志の緊密さのなかに同性愛的な発火点が生まれたり、それによって男たちの連帯が揺らいだり、それがまた事件や悲劇の発端になったりするといった映画が、すでにいろいろとつくられてきました。たとえばカウボーイ社会を舞台にした「パワー・オブ・ザ・ドッグ」や「ブロークバック・マウンテン」、警察機関を舞台にした「J・エドガー」、古いところではイギリスの全寮制寄宿舎を舞台にした「モーリス」「アナザー・カントリー」、新撰組を舞台にした大島渚の「御法度」のような変わり種もありました。

 そういうホモソーシャル空間を舞台にした男同志の愛憎劇にくらべると、本作のハンスとヴィクトールの関係はずっと親友以上、恋人未満のままです。関係はアツくでも、味付けは淡泊なのです。中途半端といえば中途半端です。中年になってようやく一夜ベッドをともにしますが、翌朝には双方が気まずさに苛まれる始末なのです。

 でも私は、この映画が二人をそういう宙ぶらりんの関係にしていることにこそ、無性に惹かれます。相いれない性指向のまま、ホモセクシャルかヘテロセクシャルかといった区分けを超え、国家からも社会からも他者からもラベリングされず、また国家や社会や他者の承認も必要としない、ただ互いに互いを必要としているというだけの唯一無二の関係を守っていこうとするところに、新鮮な感動を覚えるのです。