スーパーノヴァ/supernova

ロマンス
Hubble Monitors Supernova In Nearby Galaxy M82

星のカケラになっても君を愛したい?
おじさまたちの純愛が、せつなすぎる。

映画の紹介

長いあいだ特別な関係で結ばれ、互いを支えあってきたピアニストと作家のゲイカップル。

ひとりが徐々に記憶を失っていく病に冒されてしまったことから、命と愛の選択をめぐる葛藤が二人を追い込んでいくーーー。私生活でも親友同士らしいコリン・ファースとスタンリー・トゥッチが、なんとも愛らしくせつなく、深い人間味を感じさせる名演を見せてくれます。

原題:SUPERNOVA
制作:2020年/イギリス
監督・脚本:ハリー・マックイーン
キャスト:コリン・ファース スタンリー・トゥッチ

映画のみどころ

point 1 二人の旅の本当の行き先とは?

 ピアニストのサムと作家のタスカーは、年季の入ったキャンピングカーで旅をしています。老犬ルビーもいっしょです。旅の目的地はひさしぶりに開催されるサムの演奏会会場なのですが、もう何年もこうやって二人と一匹はキャンピングカーで各地を旅してまわってきたのでしょう。車も犬も、二人の容姿も会話も何もかもがちょっと古びてよい具合に枯れていて、なんとも親密な馴染み感があります。

 タスカーは若年性の認知症らしい病を患っています。辛辣なジョークでサムを笑わせる機知は健在ですが、サムの買い物中に車を離れて徘徊して戻れなくなってしまったりもします。物語が進むにつれ、サムが気づいている以上にタスカーの病状が重くなっていることが明かされていきます。

 じつは、サムはひそかに、今回の目的地での演奏会を、最後の演奏会にするつもりでいます。病が重くなっていくタスカーのことを側で守りたいからです。一方、タスカーはタスカーで、この旅を「最後の旅」にするという密かな決意をしています。その秘密が明るみになってしまったとき、二人に訪れる試練が、この映画の最高潮の見どころになっていきます。

point 2 名優二人が奏でるラブシーン

 歴史ものや人間ドラマはもちろん、キュンキュンのラブコメからキレキレのスパイ映画まで、なんだってこなしてしまう当代きっての名優コリン・ファース(テレビドラマ「高慢と偏見」のダーシーには私もよろめきました)。俳優としてだけではなく、なんとも洒脱な「ジャコメッティ」映画を監督してみせるなど、才能ある映画人として知られるスタンリー・トゥッチ(「Shall we dance」や「プラダを着た悪魔」の怪演も忘れられません)。

 はじめにオファーを受けたスタンリーが、20年来の友人であるコリンに“こっそり”脚本を回したことから、この二人の共演が決まったのだそうです。まさに長年連れ添った夫婦のような他愛もない会話のなかで、二人の人間味や知性、そして情愛の深さをにじませる。こんな名優同士のやりとりは見ているだけで至福です。むくつけき男二人が狭いキャンピングカーや狭いベッドでくっつきあうので、ラブシーンはちょっと暑苦しいのですが、ピュアな愛らしさが溢れて微笑ましく思えました。

point 3 イギリスの伝統、ピクチャレスクな風景

 二人の旅路はイギリスの自然豊かな風景のなかを進んでいきます。途中、二人が互いの思いを交換した思い出の場所である湖に立ち寄るのですが、この湖畔の風景が水鏡のようでそれはそれは美しいのです。イギリスには、「ピクチャレスク」といって、「絵のように美しい風景の絵」をみて崇高性の起源を思索などする美学の伝統があるそうです。さすが、イギリスの監督によるイギリスの映画、きっとピクチャレスクをわきまえて風景を選んだのでしょうね。

 全編がピクチャレスクかといえばそうでもありません。湖を離れると、ちょっと荒涼感ある谷間の風景のなかの曲がりくねった道を進むシーンが続きます。この映画の季節感が冬っぽいこともあって、とても寒々しいのです。このノーマンズランドのような景色こそは、ゲイカップルである二人がこれまで歩んできた、苦難の道のりを象徴しているかのようです。

古びたキャンピングカーが荒涼とした谷間の道をゆく。写真は公式HPより。

point 4 カップルを見守る素敵な家族たち

 荒涼とした風景を抜けて、二人は田園地帯の真ん中のサムの実家に立ち寄ります。姉夫婦とその娘の三人が暮らす瀟洒な一軒家です。この家族は、サムとタスカーの関係を心から理解し、応援もしています。そして、タスカーの病気のこともわかっていて、サムの苦しみへの共感を示してくれます。

 ゲイカップルを描いた映画では、たいてい無理解な社会や家族との軋轢や葛藤が物語を動かしていくことが多かったと思いますが、この映画の家族たちの暖かさ、不治の病気によって関係が変わりつつある二人への気遣いには、ホッとするとともに、切ない気分が煽られます。

point 5 愛の家で事件は起こる

 この暖かな愛あるサムの実家でこそ「事件」が起こります。ここからは見る側も感情の起伏をかなり揺さぶられる出来事が続きます。

 サムの演奏会のことをめぐってタスカーとのあいだで口論が起きます。それまでどちらかというと無口で感情を顔に出すことも少なかったサムは、ここで初めて「片時も離れたくないのだ」と激しい思いを露わにするのです。このあたりでもう目頭がぼーっと熱くなります。

 タスカーは、こっそりサムの家族や友人たちとしめしあわせて、サプライズのパーティを用意していました。その席でスピーチ原稿を読み上げようとするのですが、胸が詰まって読めなくなってしまい、サムに代読をしてもらいます。それは、自分の病のことをふまえて、サムへの深い思いと感謝を綴ったすばらしいものでした。ここはもう、涙がこらえきれません。映画館では両隣から鼻をすする音が聞こえてきました。

 ところがそのパーティの席で、サムは友人の口から、タスカーの執筆能力がすでに危うくなっていることを知らされます。ここから急転直下で、タスカーのとある秘密が暴かれていきます。

point 6 箱を開けたら世界は変わってしまう ★ネタばれ注意

 キャンピングカーでの旅行中、タスカーは小さな鍵付きの小箱を大事に膝に抱えています。強固な信頼関係で結ばれている二人のあいだにはなんの隠し事も秘密もないように見えますが、この箱にはサムも触れることができません。タスカーが書きかけの草稿を入れていて見せたがらないのです。

 パーティの席でタスカーの病状の進行を知ったサムは、無断でタスカーの秘密の小箱を開けてしまいます。古今東西の物語で、秘密の箱を開けてしまったら最後、恐ろしいことになることは目に見えています。鬼が出るのか蛇が出るのか、もうドキドキものです。

 そこにはタスカーが草稿を綴っているノートが入っていました。はじめは細かな字がびっしりとページを埋めていますが、次第に文字の乱れが激しくなり、やがて文字の判別のつかない書き殴りになり、ついには中断されていました。タスカーはもう文字すら書くことができなくなっていたのです。サムの激しい動揺が伝わってきて、胸がずきずきと痛むシーンです。

 もうひとつ、箱のなかにとんでもないものが入っていることにサムは気づきます。タスカーはサムに内緒で、旅の最後に向かってある計画をたてていたのです。サムにとってはこれは青天の霹靂です。やっぱり秘密(パンドラ)の箱を開けたら最後、世界は変貌してしまうのです。

 箱を開けてしまったことを黙っておくのか、明かすべきなのか。タスカーの決意を尊重すべきなのか、引き留めるべきなのか。身を引き裂かれるような葛藤にさいなまれていくサム。でもタスカーの決意は揺らぐことはありません。それもまたサムへの愛情の深さゆえです。結局サムはタスカーの思いを成就させることを受け入れていきます。

point 7 二人の恋路を象徴するスーパーノヴァ

 「スーパーノヴァ」というのは、年をとった恒星が寿命を迎えたときに、莫大なエネルギーと光を放出しながら起こす大爆発のことです。爆発によってさまざまな物質元素が宇宙に撒き散らかされます。その元素がまた新しい星を生み出す種になっていきます。私たち人間もまた、そうやって宇宙に散った星のカケラでできているのだというふうな言われ方もします。

 タスカーは天文学の愛好者です。旅行中、キャンピングカーにしつらえたベッドの天井に貼りつけている小さな天体図を見ながら、タスカーがサムに星案内をします。また、思い出の湖畔では積んできた天体望遠鏡を覗きながら、二人で星に見入ったりします。星をめぐるときだけは、弱々しいタスカーがちょっとだけ“お父さんぽく”なって、サムを優しく包み込むような雰囲気を醸します。とても印象的で大好きなシーンです。

 もちろん、「スーパーノヴァ」は、またこの映画が綴っている二人の恋路と旅路の果てを象徴しているものでしょう。老いや病気や死はあらがえない人間の宿命ですが、星たちと同じように散って、また次の星や生命のカケラとなっていくのだと思うと、ちょっと救われる思いがします。

思い出の地で天体観測をする。写真は公式HPより。

point 8 ピアノを弾くコリン・ファース

 ラストシーンは、サムのピアノ演奏会です。どんな会場でどんな演奏会なのかといったことは詳しくは描かれません。コリン・ファースが一人ピアノの前に座って、エルガーの「愛の挨拶」を演奏します。驚きましたが、ここではコリンが実際に演奏しているのだそうです。ピアノも趣味にしている私は、それだけで感激しました。コリン、ピアノ弾けるのね。

 エルガーはイギリスの作曲家で、いちばんよく知られているのが「威風堂々」でしょうか。「愛の挨拶」も聞けば誰もが一度は聞いたことのある曲ですが、あまりに有名すぎるし旋律も甘ったるくて、通俗的な印象があります。サムのように気難しそうなタイプのピアニストがコンサートで弾きたがるような曲とは思えません。

 じつは「愛の挨拶」はタスカーが好きだった曲です。「君は好きじゃないだろうけれど」と、茶目っ気をまじえてリクエストをするシーンがあるので、このコンサートはサムとタスカーの思いの成就のために弾かれていることがわかります。そう思って聞くと、通俗的な「愛の挨拶」の旋律が無上のやさしさが溢れているような気がしてきます。やがて切なくなってきます。

 このラストシーンでも、映画館のなかは無数の声なきすすり泣きで満ち満ちていきました。

私ごとですが

 認知症になって記憶を失い、愛に満ちた日々のことさえ忘れてしまう。もしパートナーがそうなってしまったら? もし自分がそうなってしまったら? 誰にとっても他人ごととはいえない事態です。でも、いまの世界ではタスカーのような決断をする人は少数です。第一、多くの国ではそんな決断を合法的にまっとうする手段がありません。

 タスカーの決断がサムへの強い愛情ゆえであることは間違いないのですが、それとともに類いまれな美学や哲学の持ち主だからこそということも言えそうです。もちろんパートナーであるサムも類いまれな美意識や哲学の持ち主です。おそらく、そんな特別な二人の特別な関係を「完璧」なままで封印しておくために、タスカーはあのような決意をしたのでしょう。

 私は「美学的に」タスカーのような決断ができる人物に憧れます(現実的には無理だとわかっています)。でも「道義的に」タスカーのような決断は許されないと思う人もいるでしょう。この映画は男性同士のラブストーリーであることに加え、人生の最期の「選択」という重い問題を扱うことで、人間が全力で「いのち」をまっとうするというのはどういうことなのかを、かなり本気で問うているように思いました。

 ところで最近、男女のロマンスものよりも、男同士、女同士の恋愛を描いた映画のほうに惹かれることが多くなっています。フェロモン薄め・体温低めの50代ともなると、美男美女が瞬間沸騰的に一目惚れしあったり、若さと体力にまかせて鞘当てや駆け引きをしたりする映画には自己投影させにくくて、気分があがらないんです。どうしたって、互いの境涯や知性や才能を認めるところから恋が始まるような、しっとりした恋愛ものに傾いてしまうのです。どうも昨今はゲイやレズの恋愛映画のほうがそのあたりのニーズにしっかり応えてくれているような気がしてなりません。このブログを立ち上げた動機も、そもそもそんな映画たちへの感想を綴りたくなったからでした。

 このあとも、しばらくそんな映画たちの紹介を続けてみます。